知られざる物語 京都1200年の旅

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2013年11月26日・12月10日放送 
京を変えた「応仁の乱」

番組内紹介リスト







京の町の北に建つ「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」。 かつてこの地で起きた争いは、やがて、長きに渡る激しい戦へと発展していきました。それが、都の歴史を大きく変えた「応仁の乱(おうにんのらん)」。この神社は、戦いのはじまりとなった重要な場所。 その後の都の歴史を大きく変えることとなった「応仁の乱」。街を歩けば、数々の名残をたどることができます。時代を揺るがした大きな騒乱の面影を追っていきます。

室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が建てたとされる「等持院(とうじいん)」。ここには尊氏を始め13体の歴代の将軍の像が置かれています。その中にある、八代目将軍「義政(よしまさ)」と九代目将軍「義尚(よしひさ)」はまさに、応仁の乱の起こるきっかけとなった重要な人物。子宝に恵まれなかった足利義政が、弟の「義尋(ぎじん)」を跡つぎと決めたものの、その翌年に義政の妻が子供を授かってしまったことに始まります。この子供こそが九代将軍「義尚」。これにより義尚派と義尋派に分かれ、対立することとなったのです。

織物の街として知られる「西陣(にしじん)」。風情残る道を歩けば、そこに残るのは、はるか、いにしえの戦いの記憶。 かつて、この地は義尚側の軍「西軍」の本陣があった場所。それを示す石碑に書かれた「山名宗全(やまなそうぜん)」の文字。この人物こそ、義政の息子、義尚につき、対する義尋派と戦った武将。ここは、そんな山名宗全率いる「西軍(せいぐん)」が、ここに陣を敷いたことから、西陣と呼ばれるようになったのだと伝わります。

一方、西軍と相対したのが、義尋側である東軍。そんな東軍の大将は「細川勝元(ほそかわかつもと)」。枯山水の石庭が今も人々の目を楽しませる、「龍安寺(りょうあんじ)」を建てた人物としてもよく知られます。龍安寺の境内に建てられた細川氏の墓が、寺とのつながりを示します。

東軍と西軍に分かれ、11年にも及ぶ長きにわたって戦いが繰り広げられた「応仁の乱」。 京の中心から西へ向かった場所に残されているのは、かつて東軍と西軍の間に流れていた川にかかっていた「百々橋(どどばし)」と呼ばれた橋の名残。ここはかつて、応仁の乱の中で、最も戦が激しく行われたと伝わる場所。今は残された礎石のみが、その面影を伝えます。 京の街の北にある、豊かな自然に恵まれた「船岡山(ふなおかやま)」。 この地もまた応仁の乱ゆかりの場所。頂上から町を一望すれば、両軍が歩んだ、長い歴史の物語に思いをはせることができるのです。

室町時代に建てられた、名高き禅寺「相国寺(しょうこくじ)」は、そんな東軍の陣地となって、幾度にも渡り、争いが行われたと伝わる場所。かつて「三門(さんもん)」があった跡地が今も残され、この地で起きた戦いの名残を知ることができるのです。

「千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)」の名で親しまれる「大報恩寺(だいほうおんじ)」。ここは、応仁の乱の激戦地の中で、唯一難を逃れたという貴重な寺。京の市街地の中で最も古いといわれる木造建築には、戦いの傷跡も残ります。その隣には、当時から今に残る、貴重な仏像の数々も。

数々の「応仁の乱」ゆかりの地を巡り、歴史を変えた戦いの記憶をたどります。


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