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2014年7月18日放送
「清む×青」
最も身近な色、青。その鮮やかさは清涼感をもたらします。暮らしを彩る青の世界。古くは濃い青を褐色と呼び、縁起の良い色として武士が好んだといいます。5世紀頃、日本に伝わったとされる藍染。明治初頭、日本に招かれたイギリス人化学者は藍色の着物の多さに驚きその藍の色を「ジャパンブルー」と呼んだと言います。もちろん美術の世界にも。青は日本を描いていく上でなくてはならない色。馴染み深い青色の歴史。その原点にあるものとは…?
紺碧の海と空に囲まれた宮古島。沖縄で最も美しいとされる与那覇前浜ビーチ。純白の砂浜にエメラルドグリーンの海が広がります。小高い砂山を登った先に現れる東シナ海。アーチ型の奇岩と海が生み出す独特な景観。青い海と空に包まれた宮古島には青と暮らしてきた歴史が詰まっていました。宮古島に450年以上伝えられてきた「宮古上布」。かつては税として納める貢納布だった高級品です。極限まで薄い生地はトンボの羽根のように軽くやわらか。多くは女性たちにの手よって分業で生産されて来ました。宮古上布の原料、苧麻。細く強い糸になるうえ宮古上布特有の深い青に染まるのだとか…。苧麻を育てて20年の下地さん。苧麻は40日程度で収穫できる多年草。
宮古島での上布作りは450年前と今なお変わらぬ方法。根元から刈り取ったら葉を取り払います。収穫したら茎の表面の皮をはいでいきます。使うのはこの皮の部分だけ。こうして仕分けられた葉と茎は土地に戻し肥料へ。水につけてアクを抜き柔らかくします。皮の中に入っているのが繊維、糸の元です。ここからが糸作り。およそ50㎝の細長い繊維。指先で細く細く裂いてゆきます。強度を増すために糸車で撚りをかけ7.5mの長さをめどに整えます。一反分の糸のために繋いだのは8万7千本以上にもなる繊維。糸を染めるのは「泥藍」。分業制の宮古上布作り。おばあたちの作業スペースは各家庭の片隅。大きな道具がなくても誰でも参加できる知恵でした。平良さんは50年の大ベテラン。1日1回糸を藍につけて干していきます。染め上げるまでに平均して15回。2週間以上毎日が様子を見ながらの勝負です。南の島の夜空を思わせる深く澄み渡った色へと染めを重ねます。こうして染め上げられた糸は織り子の元へ…。
織るのももちろん手作業。宮古上布はできあがるまで全ての工程で作り手の顔が見える布。絣と言う柄を織りなす糸と地の糸で織りあげていきます。藍染めの深い青に細かな白い十字絣で模様を出すのです。織り機にかけられた糸はなんと1200本。糸を仕掛ける作業を宮古島では「のせる」と言い正確に柄を描くための大切な作業です。一日わずか数センチ。気の遠くなるような時間を掛けて織り上げる反物。一反出来上がるまで半年から1年かかる事もあると言います。
でも宮古上布は公式な場にはふさわしくありません。少しカジュアルな着物。着心地と見た目の涼やかさを求め多くの手によって作られた究極の普段着なのです。そんな宮古上布に新たな息吹を与える人がいます。仲宗根さん。仲宗根さんの宮古上布は淡い青地に大胆な縞模様をあしらったデザイン。モダンで華やかな印象です。南国の風に舞う軽やかな宮古上布。清らかな気持ちにさせてくれる夏を代表する青の世界です。
日本の象徴的な青の世界と言えば、そう浮世絵です。浮世絵と言う言葉が登場したのは今から300年ほど前のこと。その語源となったのは「憂き世」。はかない人生を浮かれて生きるための娯楽の一つが浮世絵でした。庶民のエンターテインメントとして人気を集めた浮世絵。極彩色に溢れていますが元々はモノクロだった浮世絵。見た風景をそのままに映したい。しだいに色彩を帯びていくようになりました。
ヨーロッパから伝わった合成顔料「ベロ藍」。ベルリン藍が転じたとも言われています。天然の藍「本藍」より安いこともありあっという間に広まりました。ベロ藍によって日本人の繊細な美意識をより豊かに表現できるようになったのです。その色こそが後に海外で称賛された「広重ブルー」でした。幾重もの色が美しい浮世絵版画。1枚の浮世絵は職人の連携プレーで成り立つもの。図案を描く絵師、それを版木に彫る掘り師、色を乗せ紙にする刷り師。職人たちを総合的にプロデュースする版元がいて完成するのです。浮世絵の伝統を継ぐ人々がいます。安政年間から続く高橋工房。浮世絵などの復刻を手掛けています。この世界に入って8年目の岡田さん。広重ブルーに象徴される浮世絵の色使いに魅せられました。今手掛けているのはというと北斎の富嶽三十六景の中でも有名な「神奈川沖浪裏」。徐々に色を入れていく浮世絵作り。印象を左右する青は最後に幾重にも刷っていきます。古くから使われてきた本藍。そして浮世絵に広がりを持たせたベロ藍。3色の青が使われ作品に立体感と躍動感を与えています。江戸時代、今と違った楽しみ方が浮世絵にはありました。手にすることで見えてくる「青」。遠ざかる様な青、下から持ちあがる様な青で遠近感を表現。川面の流れも良く見ると微妙な濃淡が。この国の表情を彩ってきた青。職人の技と粋がその繊細な青に活かされているのです。
桜島を擁する海の玄関口、鹿児島。そんな鹿児島の地で生まれた工芸があります。薩摩藩が外国と対等な関係を築くため開発した交易品、薩摩切子です。薩摩藩の後ろ盾のもと始まり島津斉彬によって本格的に製造されました。江戸から切子職人を呼び寄せヨーロッパや中国のデザインを盛り込んだ薩摩切子。精巧なカッティング、ぼかしと呼ばれるグラデーション。この技術は世界に類がないといいます。しかし隆盛を極めたのはわずか20年あまり。斉彬の急逝で事業は縮小し1863年には薩英戦争により工場を焼失。打撃を受けながらも存続が図られますが1877年頃には完全に途絶えてしまいました。幻の輝きをもう一度。100年の時を越えて薩摩切子は復元されました。きっかけは、とある展示会で薩摩切子の魅力が紹介された事。美しい青い光を放つ器が再び人々を魅了したのです。島津家の子孫と地域の人々が始めた復元活動。当時と出来るだけ同じものを作りだそうと活動を開始。ところが夢の実現は苦難の連続。実現までに7年もの歳月が流れていました。復興プロジェクトから来年で30年。現在9人の職人が生地と呼ばれる土台作りを行っています。およそ1100度の温度に高めた 色のついたガラス。そこに透明なガラスを内側に重ねていく色きせ。薩摩切子の特徴であるどっしりとした重厚感。こうして2つのガラスを合わせていくことから生まれます。続いて独特の表情と奥行きを出していくカットの作業。光りの角度を計算し乱反射するように削っていくのです。そして磨くことで透明感と光沢が増します。華やかな印象を与える繊細なカット。2つのガラスが見せるのは光りの表情。さらに現代版薩摩切子を作る挑戦も始まりました。モチーフは鹿児島市の目の前に広がる「錦江湾」。誕生したのはより色鮮やかな切子。 光りが織りなす芸術。時代とともに一度は消えた薩摩の美。美しい紺碧の煌めきは命を吹き返し輝き続けます。
美しき日本の青き世界。多彩な表情を見せる青という不思議な色。青は人々を包み、時にはこの国を映し出す色となり暮らしの傍らでそっと輝いて来ました。優しく、穏やかに、凛として。様々な青はその時その時の日本人の心の記憶なのかもしれません。