バックナンバー
2014年3月28日放送
「愛しむ×俳句」
「さまざまの こと思い出す 桜かな」
日本人が桜に感じる思いをこれほど少ない字数でこれほどうまく表現した詩がほかにあるでしょうか。自然の風景や季節の移り変わりに自らの思いを重ねる、俳句。季語を詠み込みたった17文字で美を表現する世界一短い文学です。
そんな俳句に命を吹き込んだ3人の俳人がいます。
「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」松尾芭蕉
「我と来て あそべや 親のない雀」小林一茶
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」正岡子規
もし彼らがいなければ俳句がこれほどまでに世界中の人々から愛されることはなかったかもしれません。俳句を詠むことは自然を、この世界を愛しむこと。今回は俳句に命を吹き込んだ3人の俳人を辿りながらその魅力を探ります。
「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」
松尾芭蕉。それまでの俳諧にわび・さび、幽玄の境地を取り入れ風雅の世界を作り上げた俳諧の改革者。芭蕉が晩年訪れたのがみちのく「奥の細道」。旅を人生にたとえ自然と自らを深く見つめました。
そもそも俳諧とは滑稽や洒脱を好み題材も宮廷時代の美意識をなぞる型にはまったものでした。芭蕉はそれを嫌い自然の中で感じたものを自らの言葉で表現しようとしました。芭蕉が独自の表現に目覚めたのはこの句がきっかけと言われます。
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
これが当時の俳諧の常識を覆しました。それまで蛙は鳴き声の美しさを詠むものでした。しかし芭蕉の心に響いたのは飛び込む音。この音を聞いた芭蕉の頭に浮かんだのが古池でした。芭蕉がこの時に開眼した俳諧の手法を後の人は「蕉風」と呼びました。春に詠むべきものは山吹の花の下で鳴く蛙…そんな型通りの美意識を捨てた芭蕉の一句によって俳諧は世界にも通じる日本文学となりました。独自の俳諧の世界を発見した芭蕉は旅をすることでさらにその道を究めようとします。奥の細道。芭蕉がそこで究めようとしたのは風雅のこころ。場所は山形の立石寺。ここで有名なあの句が生まれます。
「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」
芭蕉が寺を訪れたとき人の気配はなく聞こえてくるのは蝉の声だけ。そのとき芭蕉は自分の心の中の閑かさに気付いたのです。源義経がその最期を迎えた奥州平泉。変わってしまった風景の中に芭蕉が見たのは…
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
蛙の飛び込む水音から始まった蕉風の世界松尾芭蕉によってたった17文字の言葉は永遠を手に入れたのです。
「痩せ蛙 負けるな一茶 これにあり」
滑稽な語り口の中にも優しさが感じられる小林一茶。一茶は生きる喜びや悲しみを俳句にしました。農村出身の一茶は庶民の目線で物事をとらえ常にその視線は弱きものに注がれていました。15歳で江戸に奉公に出された一茶が再び故郷・信濃路に帰って来たのは50歳を過ぎて…。故郷に帰って来た一茶が開口一番に詠んだ句…。
「これがまあ 死にどころかよ 雪五尺」
あまりの豪雪に面食らう一茶の表情が見えるようです。
「やれうつな蠅が手をする足をすると書いてある」
小動物を詠んだ句のいずれにも一茶の優しい目線が感じられます。俳諧師になってから農民という身分のためなかなか認められなかった一茶。52歳で結婚し初めて子供を授かります。この地で一茶は俳句三昧の穏やかな日々を送っていました。しかし幸せな日々は長くは続きませんでした。やっと恵まれた子供が次々と亡くなったのです。この年に一茶が書いたのが有名な句文集「おらが春」。
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
中くらいとは信州の方言でほどほど・ちょうどいいというくらいの意味。
でもなぜ傷心の一茶はこんな気持ちになれたのでしょうか。
「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」
あなたまかせの「あなた」とは阿弥陀如来のこと…。晩年の一茶がたどりついたのは他力本願の心。それはあるがままを受け入れ全てのものを分け隔てなく見つめるという一茶の俳句を生み出しました。
「我と来て あそべや 親のない雀」
生きとし生けるもの。すべてを愛した一茶の俳句は今も世界中の人々に愛されています。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
明治の俳人・正岡子規。子規が説いたのは「写生」するように句を作ること。病に倒れ35歳道半ばにして逝った子規。彼の写生句の多くはこの小さな病床から生まれました。東京・根岸に子規が晩年を過ごした家「子規庵」はあります。晩年の8年間子規が過ごした六畳間。最期の3年間ほどは寝たきりとなっていました。子規庵での句会もにぎやかなものでした。そんな子規の俳句への情熱はとどまるところを知らずたった一人で室町時代以来の俳句12万句を事項別に分類し解説書を完成させます。病に臥せってからも病床には常に書き物が積み上げられていました。
「いくたびも 雪の深さを たずねけり」
寝たきりとなった子規がこの句を詠んだ頃部屋のガラス戸はまだ障子だったそうです。当時日本にはまだ大きな板ガラスを作る技術はなく弟子たちはわざわざ外国からガラスを取り寄せました。子規はこの部屋から見えるものを「写生」しました。このガラスの向こうでは刻々と季節が移り変わっていきます。病床の子規にとってはほんのわずかな風景の変化も特別な出来事に感じられたかもしれません。子規はそれを写生し句にしました。病床での日々をつづった『病床六尺』の中で子規はこう書いています。
「病気を楽しむということにならなければ生きて居ても何の面白味もない。」
この小さな部屋の中で起こること。ガラスの向こうに見える風景。その限られた世界で子規は何を見たのでしょうか。子規が亡くなったのは35歳の誕生日を迎えたばかりの9月中秋。絶筆3句はガラス戸を通して見えた糸瓜の句。最期の力を振り絞り友人と妹に両側を支えられながら書いたという自筆の句です。
「ヘチマ咲いて 痰のつまりし 仏かな」
ヘチマの花の向こうに仏となった自らの姿を見た子規…。
「痰一斗 ヘチマの水も 間に合わず」
「おとといの ヘチマの水も とらざりき」
この「おととい」とは中秋の名月にあたります。当時、満月のへちまの水は結核に効くと言われていました・・・。
「病床六尺、これが我が世界である」
たった六尺にすぎないけれどその世界は子規の心の中に無限に広がっていました。
「写生」とは目の前にあるものの先に広がる世界を想い、感じること。足下の、普段は気にも留めない風景の中にこそ宇宙は広がっています。
「菜の花や 月は東に日は西に」
絵画的な俳句で知られる与謝蕪村。正岡子規が評価したことで蕪村の句は有名になりました。蕪村の絵画的な俳句はこうした絵師としての感性が生んだと言われます。俳句と絵を組みあわせた「俳画」は蕪村によって芸術として大成されました。
自然を見つめて自然と一体となる。言葉を選び、五・七・五の17文字の中に季語を入れれば俳句になります。でももうひとつ必要な最後のエッセンス。それは万物を愛しむ心ではないでしょうか。
芭蕉稲荷神社
〒135-0006 |
|
江東区芭蕉記念館
〒135-0006 |
|
一茶記念館
〒389-1305 |
|
明専寺
〒389-1305 |
|
子規庵(財団法人子規庵保存会)
〒110-0003 |