「旅は終わり、そして、始まる」
――これは、加藤登紀子さんの著書「青い月のバラード」のプロローグに記された言葉。
歌手として、妻として、母として生きた加藤登紀子さん。
獄中結婚した最愛の夫を亡くした時、彼女の妻としての旅は終わった。
しかし、「おときさん」は今も人生を旅している。
彼女の代表作である「知床旅情」の舞台となった北海道知床半島は旅の終着点であり、旅の出発点でもある。
昭和40年、東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝してシャンソン歌手としてスタートした加藤登紀子さんのプロデビュー第一作は、なかにし礼さん作詞による「誰も誰も知らない」という歌だった。おときさんは、まさに誰も誰も知らない歌手として歌手人生のスタートを切ったのである。
しかし、翌年には「赤い風船」で第8回日本レコード大賞新人賞を受賞。
歌手、加藤登紀子はビッグミュージシャンへの道を歩み始める。
「ひとり寝の子守歌」に続いて、ミリオンセラーを達成した「知床旅情」で、おときさんは歌手として不動の存在となった。
同時に加藤登紀子さんには、妻としての顔と母としての顔がある。
獄中結婚した学生運動家だった夫、藤本敏夫さんとの壮絶な愛。
そこから「知床旅情」や「ひとり寝の子守歌」が生まれた。
藤本氏との初キッスの時に、彼は「知床旅情」を歌った。その「歌」というものの根源に迫るような響きに、おときさんは歌手としてショックを受けた。2年前に「赤い風船」でレコード大賞新人賞をとっていっぱしの歌手のつもりでいた自分を恥じた。
獄中にいる藤本氏を想いながらの寂しい生活――そこから生まれた「ひとり寝の子守唄」。
彼女のヒット曲の多くは、彼女自身の人生ドラマの中で育まれてきたものなのだ。
ビッグシンガーにもかかわらず、常に飾らず、等身大。
歌手である前に妻であり、母であり続けたおときさん。
代表曲「知床旅情」の知られざるエピソードをひもときながら、加藤登紀子さんの人生の旅を追っていく。
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