「♪いのち短し恋せよ少女・・・」。昭和27年(1952年)黒沢明監督の映画「生きる」で、余命いくばくもない主人公が、一人公園のブランコに揺られながら歌っていた唄。そう「ゴンドラの唄」である。
大正時代の流行唄が30有余年を経てまた命を吹き込まれたのだ。今日の瞬間を懸命に生きる唄として。
作曲は中山晋平。今回はこの曲の誕生秘話を求めて、晋平の故郷、中秋の信州中野市を旅する。
「ゴンドラの唄」は大正4年(1915年)島村抱月率いる藝術座の帝劇公演『その前夜』の劇中歌として生まれた。主演は松井須磨子。
抱月と須磨子の恋愛スキャンダルから誕生した藝術座は、前年の『復活』で「カチューシャの唄」を劇中歌に使用、大人気を博していた。
ともに作曲は中山晋平である。晋平はこの「ゴンドラの唄」により劇中歌作曲家としての地位と名声を確立した。後年、童謡や音頭など生涯3000曲にも及ぶ中山晋平の原点となった「ゴンドラの唄」は苦労した母の人生をしのぶ歌であった。
晋平が8歳のとき父が死亡。その後、女手一つで4人の子供を育てた母が亡くなるのは、藝術座公演『その前夜』の幕開けが迫っていたときである。歌詞は吉井勇がすでに書きあげていた。
大ヒットした「カチューシャの唄」に次いで2度目の劇中歌であることから、関係者の期待や不安が晋平を襲っていた。どうしても曲ができず悩んでいた晋平のもとへ、故郷から「ハハキトク」の知らせが届いた。急ぎ帰京するも間に合わなかった。東京に戻る列車の中で母のことを思い悲しみに暮れていると、「ゴンドラの唄」の歌詞が語りかけてきて、列車の揺れとともに自然と旋律がわいてきたという。『その前夜』開幕8日前のことであった。
抱月・須磨子の死のあと晋平は藝術座を離れ、西条八十、野口雨情、北原白秋らと組んで精力的に童謡を作曲してゆく。
母が晋平との最後の別れに残した「私にも歌える歌を作っておくれ」という言葉に取りつかれたように・・・。
旅は晋平縁の信州中野から晋平が後年たびたび訪れた渋温泉をはじめ、野生のサルが入浴する地獄谷温泉へと足を延ばす。
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