2008年年の暮れ。東京・日比谷。ねぐらと職を失った人々が続々集まって炊き出しを待っていた。あの戦後の飢えた風景を彷彿とさせる日本の現実。いつの世も失政に翻弄されるのは社会的弱者である。日本中が飢えていた昭和21年(1946年)8月、粗末な新聞の読者欄の投書からこの歌は生まれた。「♪星の流れに身を占って,何処をねぐらの今日の宿・・・こんな女に誰がした」。今回のうたの旅は東京上野。作詞家清水みのるの、告発と怒りを込めた「星の流れに」誕生の秘話をひも解く。
昭和22年(1947年)12月「星のながれに」は発売された。このうたの元の題名は「こんな女に誰がした」であった。変えられたのである。清水が固執した題名は、連合国軍司令部(GHQ)から日本人の反米感情をあおるとクレームがついた。
清水がこだわった「こんな女に誰がした」には、戦争で転落を余儀なくされた女たちの、悲しみと恨みが込められていた。清水が読んだ投書とはどんなものだったのか。
今も投書欄の切り抜きと歌詞の原稿が、厚紙に張られ二つ折りにして残されている。
歌詞原稿の欄外に「星のながれに」が作詞されるまでと書き添えて・・。
清水にとってよほど大切なものだったに違いない。レコード会社のテイチクはスターの淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、録音直前、淡谷に"私、こういう歌、嫌い"と拒否された。
菊池にこの歌が回ってきた。曲調は当時流行の軽快なリズムのブギ調であった。菊池は思った。軽くは歌えない。投書の女性への強いこだわりもあり、ブルース調に編曲を頼んだ。レコードは売れなかった。しかし、菊池の絶唱は、行き場のない女性たちにくちずさまれ、客席では涙があふれていた。宣伝自粛やNHKの放送見合わせにもかかわらず、戦後の焼け跡の女たちを描いた小説「肉体の門」がベストセラーになり、芝居や映画のヒットがこの歌に火をつけた。
戦後の「夢」を歌ったのが「リンゴの唄」ならば「星の流れに」は「現実」を歌ったのである。菊池は晩年まで繰り返した。「この歌にある悲惨な時代は遠い過去ではありません。
平和な今のほんの少し前の出来事なのです」
作詞家 清水みのるは1960年代に入ると、詩作や福祉活動に積極的にかかわり始める。
広島県呉市の児童養護施設の子供たちを、詩を通じて9年間も励ましていた。
清水は投書の女性を案じ続け「いくばくかでも、印税を差し上げたい」とマスコミの協力で何回も探し回った。名乗り出るはずなどなかった。
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