だれもが一度は口ずさんだことはあるとおもわれる「五木の子守唄」。
この子守唄に、巷間流布されているものと曲調が異なる、「五木の子守唄」がある。
今回はこの子守唄にまつわる物語をもとめて、熊本・球磨地方を旅する。
球磨川の支流・川辺川のダムの建設で、村の中心部が水没することになっている、熊本県五木村。
この地方で、もうひとつの「五木の子守唄」が伝承されている。
いわゆる「正調五木の子守唄」と言われるものである。
なぜ2つの「五木の子守唄」が存在するのか。
一般に流布している「五木の子守唄」は、戦後の昭和25年(1950年)、作曲家古関裕而氏が、熊本・人吉地方で唄われていた民謡を採譜・編曲してオルガン曲として世に出したものだ。
この哀愁を帯びた「五木の子守唄」は、民謡歌手の音丸や照菊が歌って大ヒット、多くの人々に愛唱されるようになったのである。
五木地方の子守唄は、長い時間をかけて積み重ねられてきたため、歌詞のヴァリアントが非常に多く、記録されているだけでも70~80聯ほどもあるといわれている。
歌う順序も言葉も人によってかなり違う。しかし、何といっても「正調五木の子守唄」と古関編曲「五木の子守唄」の違うところは、2拍子と3拍子であるということだ。
「正調五木の子守唄」は2拍子。古関編曲のものは3拍子である。
何故だ。今をさかのぼること79年の、昭和5年(1930年)人吉市の小学校の教師、田辺隆太郎氏が、この地方の民謡を初めて採取・採譜して球磨民謡集を編纂した。その中に旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄が載っている。1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子。
この五木四浦地方の子守唄は人吉地方でも流布していたものとよく似ていた。
川辺川流域の人吉・四浦・五木と「五木の子守唄」ルーツを求めて旅は続く。球磨川下りで有名な人吉は、九州の小京都といわれ、国宝青井阿蘇神社や幽霊寺の異名をとる永国寺など、人吉城を中心とした古い城下町である。この人吉地方で唄われていた唄を採取する。次に四浦。人吉と五木の間の村だが、今五木四浦地方の子守唄を伝承するものはいない。そして、五木の子守唄の発祥地五木村。村はその中心地をダムの下に沈めようとしている。その昔、子守娘たちが自分たちの境遇を口ずさんだ子守唄。長い間、この地方で「正調五木の子守唄」として伝承されていた。しかし、一人の作曲家によって、人吉地方の子守唄が「五木の子守唄」として世に出され、愛唱されることとなった。まかり間違えば古関編曲のこの唄が元歌となっていたかもしれないのだ。「正調五木の子守唄」の伝承者堂坂ヨシ子(91歳)さんにそのいきさつを聞く。
今、五木村はときの流れに大きく翻弄されている。川辺川ダムの行方が住民の今後に大きく影をおとしているのだ。「正調五木の子守唄」の伝承がいつまで続くか未知数である。
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