うたの旅人

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初回放送:2009年7月31日「さそり座の女」




出会いに運命いうものがあるとすれば、この歌のことではないのだろうか。
「さそり座の女」この曲にまつわる運命をたどる旅にでることにする。
舞台は開港150年でにぎわう横浜。山下公園の近くに、今はない、1928年創業の老舗ホテル「バンドホテル」があった。
ここから「さそり座の女」の数奇な運命がはじまる。1968年このホテルの7階にナイトクラブ「シェルルーム」がオープンした。ジャズやロカビリーの生演奏と美しい夜景。
最盛期には東京から政財界や芸能界の大物たちが、夜な夜な通うほど盛況だったという。
その中に一人の作曲家がいた。ロスプリモスの「ラブユー東京」で歌謡界デビューした中川博之さんである。ある日仲良くなった、バンドホテルの社長斎藤守弘さんからこんなことを言われた。「家内がたくさん詩を書いているんです。見てくれませんか」と。
渡された20枚ほどの紙切れをめくっていると、「いいえ私はさそり座の女・・・・」
という歌詞が飛び込んできた。この瞬間中川さんはメロディーが浮かんだという。
しかし、この歌が世に出るにはもうひとつの運命が待っていた。1972年のことである。
美川憲一さん。「柳ケ瀬ブルース」が大ヒット。直立不動で、笑わず、しゃべらずというスタイルで第2の東海林太郎さんとも言われていたが、どこかでイメージを変えたいと思っていた矢先この歌に出会ったのだ。「地獄のはてまでついて行く・・・」女には歌えない。
暗く、女の情念のすざましさに満ち溢れた歌。歌手美川憲一が嵌った。
この歌で1973年美川さんは6回目のNHK紅白出場を果たす。
だがその後、美川さんは長い低迷期に入る。忘れられかけた美川さんに光を当てたのは、物まねのコロッケさん。90年代、コロッケさんのものまねは、茶の間の大人気であった。
コロッケさんのものまねに引きずられる格好で、「さそり座の女」は誕生20年後思いもよらぬ大ヒットになった。1991年17年ぶりに美川さんは紅白出場、コロッケさんも共演した。大ヒットのせいで、さそり座の女は、星座を明かしたがらないとさえ言われた。作詞斎藤律子、作曲中川博之。美川さんが歌うたび小さく紹介される作詞斎藤律子。
他に1曲の作品もない。
こんな激しい詩を書いた、斎藤律子さんとは一体どんな人なのか。
横浜中華街。一軒の酒店がある。斎藤さんはお店でお孫さんのお相手をしていた。
若い。斎藤さん71歳。この詞を書き上げた当時のことを語る。斎藤さんはバンドホテル社長斎藤守弘さんと再婚、30代前半、ちょうど4人目の子供を授かった、幸せの真っ最中だったという。幸せな女が「紅茶がさめるわ さあどうぞ それには毒など入れないわ・・」
なんてセリフを吐けるものなのか。その真相をさぐる。

今回の旅の立ち寄り先は中華街の聘珍樓。開港150年を記念して「五目の土鍋煮込み」という昔の中華料理のメニューを再現しております。