♪名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ・・・で始まる「椰子の実」。この国民的歌謡とされる「椰子の実」誕生の秘話をもとめて愛知県の渥美半島先端・伊良湖を訪れる。詩は島崎藤村。詩集「落梅集」に収められている。
昭和11年(1936年)夏、2・26事件が起きいやな空気が世の中を覆いだしたころ、ラジオ放送を担う日本放送協会は、退廃的でなく健全で明朗な歌を国民に広めるため国民歌謡の制作・放送を始めた。そのひとつに「椰子の実」があった。作曲は大中寅二。うたうのは直立不動の東海林太郎。連日ラジオで放送され、レコードにもなった。
やがて日本は太平洋戦争に突入、戦場は南方へと広がっていった。
そしてこの歌はなぜか南方の兵隊の間でよく歌われたという。「海の日の沈むを見れば、滾り(たぎり)落つ異郷の涙」「いづれの日にか国にかえらむ」。兵士たちは望郷の想いをこの歌に託し口ずさんだのだ。
歌は世につれ、世は歌につれというが、「健全で明朗な歌」として広めた歌が、苛烈な戦場で厭戦的望郷の歌としてうたわれるとは皮肉な巡り合わせである。
これはこの詩の誕生にまつわる皮肉かもしれない。
伊良湖岬にある恋路が浜。1KMほど続くなだらかな砂浜である。名前にちなんで恋人の聖地といわれている。明治31年(1898年)夏、当時まだ学生だった、柳田国男がこの伊良湖に滞在していた。村を散策、村人の暮らしを見聞する日々を過ごしていた。ある嵐の翌朝浜に出ると、南国のものらしい椰子の実が流れ着いていた。なかには実も入っていたという。帰京後、この体験を詩人で友人の島崎藤村に話したところ「藤村はこの体験を誰にもはなさず自分にくれ」といったという。
藤村はこの柳田国男の話を「椰子の実」に結実した。のちに民俗学の大家となった柳田国男は昭和27年(1952年)は雑誌「心」の連載随筆「海上の道」でこのいきさつを初めて発表した。藤村の死後10年がたっていた。
藤村と柳田。近代日本の巨人が若き日に交差し、のち絶交するという運命を内包したこの歌。日本中を歩いた民族学者柳田国男にとってこの伊良湖滞在は記念すべき最初の旅であり、柳田民俗学の出発点であった。
今、伊良湖では、歌碑が建ち、椰子の実流しのイベントがおこなわれている。
巨人たちの青春のにがい思い出とは別に、整備されたサイクリングロードを疾走する若者に、恋路が浜はやさしく心地よい潮風をおくっている。
近くには三島由紀夫の「潮騒」の舞台となったといわれる神島がある。
港から15分の船旅が楽しめる。
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