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2013年3月15日・29日
「つたえる×宮沢賢治と東北(後編)」
東北地方の北、岩手県。
そのほぼ中央に位置する城下町、盛岡。
少年は13の春、親元を離れ、一人、この町に来ました。
そして、後に「新鮮な奇蹟」と呼ぶ、特別な場所に出会うのです。
小岩井農場。
新しい農業を目指し、作られた牧場は少年には、光り輝く理想郷イーハトーブに見えました。
少年の名は宮沢賢治。夢を、理想を追った人でした。
厳しい自然の中、農民が自立する道を模索した賢治は、志半ば37歳の短い生涯を閉じました。
しかし彼が逝って80年、賢治の夢、志は、その地につたえられ引き継がれています。
東北が産んだ詩人、童話作家、宮沢賢治。
彼がその作品で「新鮮な奇蹟」と呼んだ特別な場所。
それは、日本で初めて作られた西洋式の大型牧場、小岩井農場です。
賢治は、お気に入りの、その牧場に春夏秋冬、何度も足しげく通いました。
不毛の地と呼ばれた火山灰の原野を開き、新しい農業、農村を開拓する。夢と希望に燃えた、新しい農場でした。
賢治は農場を度々訪れただけでなく、「小岩井農場」の詩の他、10の作品に、農場を登場させています。
憬れにも似た、思い。小岩井農場の何が賢治の心を捉えたのでしょうか。
賢治が初めて、農場を訪れたのは明治43年。中学生の頃。
その時、賢治は農場にほど近い盛岡の町にくらしていました。
城下町として栄えた盛岡は賢治が生まれた岩手で最も大きな町でした。
花巻の裕福な家に生まれた賢治は13歳の春。
盛岡の中学に進学。一人寮生活を始めます。
卒業後は、苦しむ農民の役にたちたいと盛岡の高等農林に進学します。
詩や童話を本格的に書き始めたのはその頃のことでした。
盛岡の駅に近い、材木町。かつて木材加工の職人が多く住んだ、その町に、賢治ゆかりの店がありました。
イーハトーブ童話「注文の多い料理店」出版の地、光原社。
この名前は賢治が名付けました。
光原社は、民芸品の世界ではよく、その名が知られた名店です。
東北ばかりでなく、全国から選ばれた手作りの名品が並びます。
賢治の生涯唯一の出版物となった本「注文の多い料理店」。
実はその誕生の裏には、ある物語がありました。
光原社創業者、及川四郎。
盛岡高等農林で賢治の2年後輩だった及川は、教科書の出版業を営んでいました。
当時、花巻農学校の教諭になっていた賢治に教科書の売り込みに行った及川は、その帰り、膨大な原稿を預かります。
それを1000部刊行するも50部しか売れませんでした。
及川は多額の赤字を抱えながらも、なんとか出版業を続けました。
しかし、戦時中、出版物の紙に厳しい統制がしかれ転業を余儀なくされるのです。
その時に窮地を救ったのが、生前、賢治から受けた教えでした。
冬の農閑期の農民の生活の糧を確立したい。農民達の生活の中にこそ、文化はある。
及川は、農民達が作り、誰も見向きもしなかった竹細工、籠を集め、値段を付けました。
名もなき農民、庶民たちが作家となった瞬間でした。
賢治の教えを守る光原社が特に力を入れる工芸品があります。
「卵殻」。卵の殻を埋め込んだ漆細工です。
高度な技術と手間ひまがかかるために職人も減っている滅び行く匠の技。
通常は、 殻の薄いウズラを使いますが、光原社では、ニワトリの卵。
手間と技術は更にかかりますが、その深さ奥行きが美しさを際立たせるのです。
一面を張るだけで一日がかかるという仕事。
東北でも出来る職人はほとんどいません。
苦しくても、続けた道のその先に必ず光はある。
時を越えて賢治が光原社という名前に託したメッセージです。
小岩井農場には、創業当時からの古い家々が並んでいます。
疲弊した農村の改革を目指した小岩井では全ての職員が家族と一緒に農場で暮らしました。
農場の中に集落が生まれ、郵便局も託児所も診察所も出きました。
囲碁からテニス、文化活動も盛んに行われ、そこはひとつの大きな村となりました。
住宅事情の変化などから、外に住み通う職員も多くなりましたが今も、昔ながらに社宅で暮らす家族もいます。
時代は変わろうと今も、この場所が、この子達の、家族の帰るべき家なのです。
牧草地の横に、ひっそりと小学校の校舎があります。
明治37年に開校された小岩井農場の小学校。ピーク時には150人の子供達が学んだ学び舎は1985年に廃校となりました。
時の流れに変わる風景もあれば、過去の時を蘇らせた風景もあります。
盛岡の中心部、紺屋町に店を構える、草紫堂。
ここでしか手に入らない、ある染め物があります。
気品を感じさせる紫の発色が特徴の紫紺染。
紫根染とは鎌倉時代から岩手に伝わる染色法のこと。
素材は、生薬にも使われるムラサキという花の根です。
この伝統的な染め物は明治に入ると合成染料に押されて衰退し、やがて姿を消してしまいました。しかし草紫堂が復活させたのです。
賢治はその復活を題材に小さな童話を書いています。
失われ、蘇った技を手で守り、つたえていく。
その場所は、淡い光に包まれていました。
貧しい農民を救済する手段として、賢治が小岩井農場で、注目していたものがあります。
明治維新後、国策として導入が図られ、小岩井でも飼育されていた綿羊です。
賢治は、羊毛を、家で紡ぐ、ホームスパンが、農家の貴重な収入源になると考えたのです。
婦人の働く場を確保しようと昭和32年、発足した、みちのくあかね会。
刈り取られたばかりの羊毛の選別から洗浄、そして染色。製品になるまでの全ての作業を自分たちの手で行います。
働くメンバー15人は今も全てが女性。自宅で内職をする仲間もいます。
ここでは、今ではあまり見られなくなった昔ながらの古風な機械も立派な現役です。
羊毛から糸を紡ぐのは足踏みの糸車。長年の経験と手先の微妙な感覚が命です。
紡がれた毛糸は、これもまた足踏み式の機織り機で織り上げられていきます。
ここでしか手に入らない。お母さん達が自慢するほんものの、ホームスパンニット。手が伝えるぬくもり、あたたさ。
賢治は、小岩井農場と言う小さな宇宙の中に、
永遠や理想。新しい奇蹟の息吹を見ていたのでしょう。
光原社 岩手県盛岡市材木町2-18 |
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草紫堂 岩手県盛岡市紺屋町2-15 |
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南部鉄器・鈴木盛久工房
岩手県盛岡市南大通1-6-7 |
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みちのくあかね会
岩手県盛岡市名須川町4-30 |