ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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2月6日(土) ゲスト:竹中直人(俳優・映画監督)
俳優・映画監督、竹中直人。
神奈川県横浜市で、両親ともに公務員の家庭に生まれる。一人っ子だったため、幼少期は家で絵を描いて遊ぶなど、おとなしい子どもだった。そんな竹中少年の楽しみは、家族3人で映画を見に行くこと。そのころから、映画に憧れを抱くようになったという。
最初の転機は中学生時代。引っ込み思案だった自分を変えたいと考えた竹中は、有名人のモノマネに挑戦、瞬く間にクラスの人気者になっていく。
続く転機は、高校生の時。8ミリフィルムに出会い、憧れの映画を自分で撮ることができる、と映画への思いを一気に加速させた。しかし同じころ、母が結核を患い他界。今も忘れられない母とのエピソード、そして母への思いを語る。
俳優への道を決定づけたのは、多摩美術大学への進学だった。映像演出研究会に入り没頭していた映画製作のエピソード、さらに当時作った秘蔵映画も披露する。大学4年生の時には、本格的に役者を目指す決心をし、劇団青年座の門をたたく。俳優になるため、厳しい稽古とアルバイトに明け暮れた。
そして、1983年、バラエティー番組「ザ・テレビ芸能」でテレビデビュー。ブルース・リーや加山雄三などのモノマネでブレークし、一躍時の人となった。そのキャラクターが買われ、1984年には、映画に出演。その後も、シリアスからコメディーまでこなす個性派俳優として、活躍の場を広げた。そんな竹中にとって役者の原点とは? それは、意外にも子ども時代から抱えていたコンプレックスと大きな関わりがあった。
1991年公開の「無能の人」では、映画監督に挑戦。初監督作品で、ベネチア国際映画祭国際批評家連盟賞を獲得する。その後もさまざまなジャンルの映画を作ってきた竹中にとって、映画とはどのようなものなのか? そして今後の展望とは?
また、少年時代から映画作りと並行して行ってきた音楽活動についても思いを語る。歌手としてCDを発売した経験や失敗談について、ミュージシャンとしての素顔を明かす。
竹中は生来、シャイで繊細な男。役を演じることで、違う自分になれるという。インタビューでは、そんな照れ屋な一面ものぞかせた。唯一無二の俳優・竹中直人の本音が垣間見られる貴重な1時間!
2月7日(日) ゲスト:野村忠宏(柔道家)
オリンピックで柔道史上初の三連覇を成し遂げた、野村忠宏。"天才"と呼ばれた野村だが、子ども時代は極端に体が小さくきゃしゃで、中学初の公式試合では、同い年の女子に負けるという屈辱も経験した。どん底から始まったといっても過言ではないその柔道人生だが、彼はいかにして頂点を極めたのか?
祖父が作った柔道場で、物心ついた時には柔道をしていたというが、高校に入学したころは入部をためらうほど、勝てない選手だった。強い兄に比べ、いつまでも強くなれない自分に劣等感を感じていた彼の背中を押したのは、父から言われた冷たい言葉。野村の柔道は、「父に認められたい」という思いに常に支えられていた。
天理高校柔道部では、勝てない原因を自ら分析し、徐々に頭角を現していく。このころ、息子の柔道を見た父から、初めてアドバイスを受けた。その時父にかけられた言葉とは? そしてこの言葉こそ、彼を後の柔道王者へと導く原動力となっていく。
初めてオリンピックに出場したのは、1996年のアトランタ。全くの無名選手だったため、出発時にはカメラマンに突き飛ばされたという苦い思いも…。そして見事金メダルを獲得した野村は、翌日の新聞紙面に仰天したという。目を疑ったその見出しとは?
「2連覇を成し遂げて引退する」と公言して臨んだ、2000年のシドニーオリンピック。すでに円熟期に入っていた野村の柔道は、世界の強豪を寄せ付けずに優勝。しかし、オリンピックが終わった時、自身の口から"引退"という言葉が出てこなかった。
その後、野村は日本を離れてアメリカで生活を始める。稽古はほとんどせず、子どもたちに教える程度。柔道の世界チャンピオンという肩書きを外した生活は、「楽しくて仕方がなかった」と振り返るが、ある思いが野村を復帰へと向かわせる。柔道から離れた2年間で達した、その心境とは?
2004年のアテネオリンピックでは、前人未到の三連覇を達成。この時、周囲からは"引き際"についていろいろと言われたという。「一番きれいな"引き際"は、自分が最も強かった二連覇の時」と言い切るが、一度は情熱を失いながらも三連覇を目指して復活したのはなぜだったのか?
そして、リオオリンピック出場を懸けた試合、けがで満身創痍(そうい)だった野村は二回連続一本勝ちを決めるも、三回戦で一本負け。引退を表明した。しばらく畳から起き上がらなかった彼の脳裏に去来した思いとは?
昨年の引退から半年、今は毎日来ていた柔道着を「ほとんど着ない」という生活をしている。その中で見えてきた日本柔道の未来、そして自らの未来とは? さらに、2020年の東京オリンピックへの思いについても、本音を語る。