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ストーリー

7/20(火)・7/25(日)の放送
メモリアル <戦前のダットサン>

ダットサンの歴史をひも解く

日本の自動車界で最初に量産を実現したのは日産の横浜工場であった。これはその当時(昭和10年)の小さなダットサンの物語である。およそ60年前、おしなべて世の中は単純。昭和恐慌は深刻。日本は軍国化しつつあった。そんな時代、日産は横浜工場で8300台を生産していた。半世紀以上も親しまれたダットサン。

国産マイカーの登場

ダットサンは日本で初めてのマイカーを目指して作られた小型車。今は日産というブランドになってしまった。明治44年、東京・麻布に会社を設立した橋本増次郎は3年後の大正3年、試作車をかわきりに大正5年にはDAT41型セダンに発展させる。DATの名前は出資者、田健二郎(D)、青山禄郎(A)、竹内明太郎(T)の3名の頭文字をあわせたものである。一方、関西でリラー号を発売する。ウィリアム・R・ゴーハムによるものだった。ゴーハムの助手をへてのちのダットサンの産みの親となる後藤敬義である。

ダットサン、生産はじまる

関東大震災後の大正15年、東京と大阪の会社が合併して、ダット自動車製造として再出発する。昭和5年、後藤はダット91型を完成させる。そして1年後の昭和6年8月早くも生産型一号が大阪で産声を上げる。DATの息子でDAT SONと名づけらたが、SONは損得の損に通じるからすぐにダットサンに改称される。最初のダットサン10型は翌年には11型となり、そして昭和8年には 750CCの12型に発展する。

ニッサンが誕生

橋本らが生みの親なら、一代の企業家、鮎川義介は育ての親となる。大阪と東京の工場を手中に納め、資本金1000万円の自動車工場を設立する。横浜に近代的な工場をつくり、自動車製造を昭和9年、社名を日産自動車へと改め。日本で初めて自動車の大量生産始める。その1号車ダットサン14型がラインオフしたのは昭和10年4月のことであった。昭和9年9月に発表された13型は、いわば過渡期のモデルだがハート型のグリルは当時最新の流行であった。昭和10年ダットサンは根本的な設計変更を受ける。14型のフロントは、もはや簡単に横転することはなくなった。14型は官庁でも使われ、大阪府警にも採用された。わずかだが輸出も開始した。しかし、昭和13年、日中戦争でわが国の自動車製造はすべて禁止となってしまう。