百年名家~築100年の家を訪ねる旅~

百年名家~築100年の家を訪ねる旅~

  • トップページ
  • バックナンバー
  • contents3
  • contents4

バックナンバー

埼玉・秩父 小鹿野町~絹と人情が繋いだ歴史街道~

今回の『百年名家』は、埼玉・秩父 小鹿野町(おがのまち)。

秩父郡にある小鹿野町は埼玉県の北西部に位置しています。小鹿野町の歴史は古く、今から1000年以上前の平安時代中期に編纂された「和名妙」にも記されています。
小鹿野町の中心市街地は、かつて江戸と信州を結ぶ上州道が通り、明治大正の頃は、絹織物を運ぶ重要なルートとして栄えていました。そのため今も街道筋には絹を扱っていた商家や旅籠などが軒を連ねています。
また小鹿野町は歌舞伎の町としても知られています。
江戸時代の中期に始まった小鹿野歌舞伎は、役者から裏方まで地元住民がすべて手作りで運営し、1年を通して鑑賞することができます。そんな趣のある小鹿野町のシルクロードを八嶋さんと本上さんが巡ります。

最初に訪れたのは、常盤屋さん。明治13年に建てられた切妻、瓦葺の土蔵造りの町家で、生糸を扱うこの町一番の豪商でした。
常盤屋さんの入り口は街道沿いにもありますが、正式な玄関は何故か脇道を入ったところに造られています。 それは、自宅に入るときに、街道を挟んで向かい側に位置する「十輪寺」に、尻を向けて入らないようにするための配慮だったそうです。
そこで二人は脇道から玄関に向かうと、想像以上に立派な長屋門が現れます。さらに主屋には、高貴な客専用の「式台(しきだい)」が配置されていました。かつての得意客に高貴な方々が多かった証が、この屋敷構えからも見て取れます。
一階部分はかつての店舗兼住居でした。内部には、鎧戸・釘隠し・砂壁などの貴重な意匠がそのまま残されています。しかし、何といっても最初に目に入るのは、幅1メートル以上もある太い梁。でもそれだけではありません。大黒柱も直径4メートル以上の檜の一本木から切り出したという驚きの代物でした。
二階へ上がると、そこには驚くほど広い部屋。かつて養蚕飼育に使用していたそうです。しかもこの家には三階部分もあり、そこからは抜群の景観が堪能できます。
これだけの建物を維持するためには、こまめな修繕が必要だったそうで、歴史的建造物の維持の大変さを知った2人でした。

次に向かったのはかつての本陣。明和2年、八代将軍徳川吉宗の時代に代官の出役所として発足したのが始まりといわれています。現在は町の観光交流館として活用されています。
1階は小鹿野歌舞伎の小道具や隈取(くまどり)のイラストや、秩父銘仙などが展示され、食事処では小鹿野名物「わらじカツ丼」を食べることが出来ます。
2階には秩父事件の参謀長が泊まっていたとされる部屋や、宮沢賢治が盛岡高等農林学校在学中に秩父地質見学に訪れた際に泊まった部屋が残され、そこからの景色を見て詠んだ詩が残されています。
また「代官の間」には武者窓や殿の御在所が残されています。そこで何やら変わった窓を発見する2人。これは"どんでん返し"と呼ばれ、敵が来た時に窓から逃げられるようになっている仕掛けだそうです。さっそく八嶋さんが"どんでん返し"にチャレンジ。

続いては町の名士で、町長なども務められたお宅を訪れました。「浅見商店」は明治30年ごろに建てられた
商家建築で小鹿野でも珍しい「土蔵造り」になっています。現在は煎茶を扱う店ですが、かつては絹の買継商をしていました。蔵の前には鉄柵があり、馬が主な交通手段であった当時は、馬を鉄柵の中につないでいたそうです。
建物に使った部材は、丸太を8年寝かしたあと製材、さらにそれを3年寝かして建てられたという、こだわりの家です。
大黒柱の艶は惚れ惚れするほど。家を建てる際に柱の先端をすり鉢状にし、そこから注いだ油が柱にしみ込んで、このような艶になったそうです。
浅見商店の居間に座ってほっとした気分に浸る二人。そんな落ち着いた空間にしばし酔いしれました。

旅の最後に「おがの路地まち研究会」の方にお話しを聞きました。「おがの路地まち研究会」は小鹿野の路地から魅力を発信するために、活動を続ける地元の市民団体です。
昔から住まわれているご高齢の方々から聞き取り調査をして、かつての古き良き町並みを残し、昔懐かしい町を目指せたらと考えているそうです。

歴史と人情味あふれる「絹の町」に出会えた旅でした。