うたの旅人

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初回放送:2010年2月5日「虹と雪のバラード」





オリンピック。日本人が大好きなスポーツイベントである。まもなく第21回冬季五輪がバンクーバー(カナダ)で始まるが、38年前アジアで初めて冬季五輪が開かれた。第11回札幌冬季五輪である。このとき美しい街とひとつの曲が生まれた。「虹と雪のバラード」である。今回はこの曲の誕生秘話をたずね北海道・札幌に旅をする。

1972年、日本の高度成長の仕上げとも言われる国家事業が行われた。札幌五輪である。これを機に北の大地に美しい街ができた。地下鉄が走り地下街ができた。長靴で美しい地下街を歩くのは少々照れくさいが、札幌市民はオリンピック開催の恩恵を肌で実感したものだ。そんな時、札幌オリンピックのテーマソングとしてできたのが、「虹と雪のバラード」である。この曲の作詞に当たって三つの注文がつけられた。作詞を依頼されたのは医師の河邨文一郎さんであった。河邨さんは当時札幌医大教授で北海道整肢学院の院長をかねていた。後に「肢体不自由児の父」と呼ばれた人である。医師がまた何故作詞を。
実は、河邨さんは現代詩人でもあったのである。反骨の詩人金子光晴に弟子入り、遺書を託されたほど交わりは終生に及んだ。医者と詩人。河邨さんは生前詩を書くことを「医者の余技」とみられたことにたいして「私は医学を学ぶ前から詩を書いていた。詩人仲間から君は医者もやるそうだね。いい趣味だね、といっぺんぐらい言われて見たい」と語っていた。
三つの注文のうちの一つであった、「五輪の後も愛され続ける讃歌」はその歌を歌った歌手の人生にも運命の影を感じさせる。トワ・エ・モワ。フランス語で「あなたとわたし」。1969年「ある日突然」「空よ」「誰もいない海」などヒットを飛ばしていたが1973年解散。それぞれが別の道を歩き始めた。白鳥さんは結婚して主婦。芥川さんは音楽プロデュサーとして。それから四半世紀たち、日本は再び冬季五輪を開催することになった。1998年長野冬季五輪である。このとき長野五輪を盛り上げるために組まれた、文化芸術祭プログラムでのことであった。解散したトワ・エ・モワがもう一度コンビを組み「虹と雪のバラード」を歌うことになったのである。このときのいきさつをトワ・エ・モワの芥川さんはこう語る。札幌オリンピックで活躍したジャンプの日の丸飛行隊3人に、是非「虹と雪のバラード」を生で聞かせてやってくれと懇願されたのである。うたうことをやめていた芥川さんにとって、声が出るかどうか心配だった。白鳥さんと芥川さんは「この歌を二人で歌う最後のチャンスかも知れない」と思った。
しかし、最後ではなかった。これを機に、二人はコンビを再結成して音楽活動を続けることになる。オリンピックが結ぶ不思議な縁。この曲が持つ運命なのかもしれない。
♪君の名をよぶ オリンピックと 雪の炎にゆらめいて 影たちが飛び去る ナイフのように ♪