人づてに広まった「四季の歌」。新潟県妙高高原が舞台である。今回はこの歌を作詞・作曲した、荒木とよひささんの第二の故郷である新潟・関温泉に同行取材。9月の妙高高原のさわやかな風景の中、「四季の歌」の誕生秘話をたどる。
この歌は、荒木さんが学生時代、スキーで大けがをして入院。夢破れ、失意のどん底で作詞作曲した歌である。
その歌が、当時入院していた新潟・高田の病院の看護婦さんたちの口伝えから、巷間に広まり、レコード各社が競作、ダークダックスや芹洋子さんでブレイクした。
「四季の歌」は望外の生命力を持った歌だ。荒木さんがこの歌を作詞・作曲したのは1963年ごろ。ストリートミュジーシャンのはしりだった、すがわらやすのりさんが1968,9年ごろ東京・日比谷の一角で唄っていた。もちろん誰が作詞作曲したのかは知らなかった。
そして、1976年。東京のラジオ局の生放送番組に「四季の歌」のリクエストが来た。しかし番組の関係者は誰もこの歌を知らなかった。番組で呼びかけたところ、作詞家の荒木さんがプロデビュー前に作った歌だと判明した。
巷間に流布していた歌は、荒木さんが作詞したものとは少々違っていた。しかし、荒木さんはそのままにしておいた。「この歌は女性の間で広まったから、今のように変わって行ったのでしょう」と鷹揚である。
「四季の歌」。荒木さんの「失意の底で生まれた母恋のうた」で人生を変えた歌でもある。
荒木さんは中国・大連生まれ。戦後熊本に引き揚げ父母は離婚。父を知らない。母は働く女性として、荒木さんを熊本の祖母のもとに預け東京へ。
小学校にあがるころ、母と暮らすようになるが、10歳のころから、冬は一人で新潟・関温泉のスキー宿「登美屋」で過ごすことになる。いつしか宿の主人とおかみさんを「とうちゃん、かあちゃん」と呼ぶようになる。そして大学2年のとき大けが。荒木さんは語る。「あの事故がなければ、作詞家になっていたかわからない。母が僕を関温泉に送りださなかったらどうなっていたか」
旅は、秋の日本海・直江津まで足をのばし、カニ市場を荒木さんと尋ねる。日本海は荒木さんが四季のうたのあと、バンド活動やCM作詞などをへて、プロの作詞家になって送り出した「哀しみ本線日本海」を書いた思い出の場所である。
今回初めてうたの作詞家の旅というかたちをとる。
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