うたの旅人

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初回放送:2009年9月25日「男はつらいよ」




日本中ががむしゃらに働いた高度成長時代に入る1969年、映画「男はつらいよ」が封切られた。
以来48本、日本映画史上シリーズものとしては最多人気作品となった。
働けば明日はきっと豊かになると、誰もが夢を見ることができた日本。
そんな時代に何故「男はつらいよ」の主役、勤勉さと対極にある、風来坊の「フーテンの寅さん」が受けたのか。
今回は寅さんの人気の秘密を探しに、浅草・柴又を旅する。
「男はつらいよ」を語るとき俳優渥美清を抜きには語れない。
渥美清さんが青春を駆け抜けたのは東京浅草。1953年、浅草六区にあったフランス座(現・浅草演芸ホール)に「下駄みたいな顔をして、大道香具師みたいなしゃべり方をする男」が出演していた。若き芸人渥美清さんである。当時のフランス座はストリップが中心で、コメディアンは刺身のツマであったのだが、渥美さんは違った。日本一のコメディアンになろうという闘志と芸人魂にあふれていたという。しかし、無理がたたり当時は死病といわれた、肺結核に罹り、右肺を摘出、3年の療養後復帰することになる。
渥美さんがコメディアンから俳優になってゆくきっかけには、ある出会いがあった。
作家井上ひさしさんと脚本家早坂暁さん。この二人との運命的な出会いが、俳優渥美清を誕生させたのである。
井上さんは渥美さんが復帰してきたとき、フランス座で進行係をしていた。そして渥美さんのため必死に台本を書いたという。脚本家の早坂暁さんとの出会いも運命を感じる。
1952年東大ポポロ事件で警察に追われた早坂さんは、浅草に潜んでいた。出会いは銭湯「蛇骨湯」であった。そこで渥美さんがかけた言葉は「兄ちゃん、逃げてんのかい」であった。
その時、渥美さんは早坂さんを「志士」とよび意気投合、以来渥美さんと早坂さんの友情は渥美さんの亡くなるまで続くのである。
「男はつらいよ」はテレビドラマから始まった。脚本・監督は山田洋次さん。全26回で最後に寅さんはハブにかまれて死ぬのである。このとき「なぜ寅を殺す!」という抗議の投書が殺到、山田監督は1話完結の映画化を決意したという。
しかし、1話では止まらなかった。
それとともに主題歌「男はつらいよ」も変化を重ねてゆく。
寅さんの弟分「源公」を演じた佐藤蛾次郎さんの案内で、縁の人、縁の地を訪ね、「男はつらいよ」の持つ男のユートピアと俳優渥美清の本当の姿を探しにゆく。
「俺は海底をはいずり回る、ウミウシだ」とは渥美清さんの言葉である。

「男の人生一人旅、泣くな嘆くな影法師」