ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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7月30日(土) ゲスト:高橋幸宏 (ミュージシャン)
ミュージシャン・高橋幸宏、64歳。
小学生からドラムを始め、プロとして活動を始めたのは高校生時代。その後、サディスティック・ミカ・バンド、YMOで世界を席巻し、今なお時代の最先端を走り続けている。そんな高橋が、最先端の音楽を生み出し続ける原動力とは?
インタビュアーは、前「AERA」編集長の浜田敬子。青春時代にYMOが直撃した世代だという。高橋といえば、おしゃれでダンディーなイメージだが、そのスタイルはどのようにして生まれたのか? そこに疑問を抱いた浜田は、高橋にゆかりのあるレコードを使ってインタビューを進めていく。
また、高橋の名が日本全国に知られることになった、サディスティック・ミカ・バンド、YMOの裏話もたっぷり披露! “奇跡の世代”と呼ばれた同世代のミュージシャンたちとの交流から、運命的な加藤和彦との出会い、熱狂的に迎えられたミカ・バンドのイギリスでの活動、高橋だからこそ話せる細野晴臣・坂本龍一との秘話、そして、爆発的な人気の裏で抱えていた苦悩まで…。
さらに、今年で9年目を迎える夏の風物詩、都市型フェスの“ワールド・ハピネス”についても。高橋は運営側の一員として、若いアーティストから実力派シンガーまでをキャスティングし、アーティストたちの交流に一役買っている。いわゆる“夏フェス”に高橋が深く関わる理由とは? そして高橋から見た、今年の最大の見どころとは?
現在、高橋は「METAFIVE」というユニットに参加している。おしゃれで最先端、それでいて耳なじみが良い「METAFIVE」のサウンドは、とても60代半ばの男が生み出したものとは思えない。なぜ今も変わらず最先端でいられるのか? なぜ、高橋は海を越えて世界中に受け入れられたのか? その理由が、時代を象徴する名盤とともにひもとかれていく!
7月31日(日) ゲスト:小林克也 (DJ)
日本DJ界の草分け的存在、小林克也。
小林の子どものころの唯一のおもちゃは、ラジオだった。聞こえてくる英語放送を、訳も分からず聞いているうちに、英単語を覚え始めたという。中学に入ったころには、だいぶ英語が聞き取れるようになっていたが、ある日プレスリーの「ハートブレイクホテル」に衝撃を受ける。他の曲はある程度歌詞がわかったのに、プレスリーは全くわからなかったのだ。しかし、心地よい曲調に夢中になり、ラジオの前でプレスリーかかるのを待っていた。高校生になったころには、英語の先生に文句をいうほど、英語に自信を持つように。
その後、英語で身を立てるかのように、DJの道に進む。ラジオ番組で曲の合間に入れた“おふざけコント”が評判となり、その名が広まっていった。後にレコード化までされた「スネークマンショー」の内容は、まさに“何でもあり”。アナーキー過ぎる内容を小林自身はどう考えていたのか?
1981年には、一世を風靡(ふうび)した音楽番組「ベストヒットUSA」がスタート。小林は名だたる大物アーティストにインタビューをし、交流を深めてきた。ポール・マッカートニーへのイギリスでのインタビューの際には、現地スタッフも緊張を隠せない中、小林までも極度に緊張してしまった。しかし、その緊張を解いたのは、ポールが開口一番発した一言だった。その言葉とは?
1982年、当時人気絶頂だったマイケル・ジャクソンが、新作「スリラー」を発表した際には、10分以上あるPV(プロモーションビデオ)を、ノーカットで公開し話題に。今回のインタビュアーを務めた松岡修造も鮮明に覚えているという。後のPVを変えたとまでいわれる、「スリラー」のPVを、小林はどう捉えていたのか? 当時、「アメリカとイギリスの差が対照的で面白かった時代」と小林は振り返るが、米英のPV事情はどのように違ったのか?
また、当時「テレビには出ない」と公言していた矢沢永吉が、「ベストヒットUSA」に出演することになった際の裏話も。当日、10分遅刻してしまったという小林に、矢沢が取った態度とは?
60歳を越えてから、がんで2度の闘病生活を経験した小林。さまざまな人に出会い、その考えを聞いてきた人生…。言葉で勝負し続けてきた男が今、後世に残したい思いとは?