ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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7月2日(土) ゲスト:樫本大進(ヴァイオリニスト)

ヴァイオリニスト・樫本大進。
ドイツに在住する彼だが、今回、世界最高峰のオーケストラ「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の東京公演のタイミングに合わせてインタビューが実現した。樫本は、バッハが生まれる前に作られた名器、1674年製のアンドレア・グァルネリと共に現れた。
現在、ベルリン・フィルで、コンサートマスターを務める樫本。その使命は、オーケストラ全体をまとめること。指揮者の狙いをくみ取り、楽曲の解釈などと合わせて自らの演奏で全員に伝える、いわば“橋渡し役”だ。演奏の技量や音楽性だけではなく、人間性が問われる役割で、これまでもさまざまな問題に直面してきたという。現場での樫本は、どのようにして全体をまとめ上げてきたのか?
1979年、父親の赴任先・ロンドンで生まれ、生後間もなく日本に移る。機械メーカーに勤める父親は音楽好き、母親も音大のピアノ科出身。家には楽器のおもちゃが多かったという。中でも夢中になったのが、弦と弓を操るヴァイオリン。3歳からヴァイオリニスト・恵藤久美子に師事し、5歳の時、父親の転勤でニューヨークへ。7歳でジュリアード音楽院プレカレッジに入学すると、11歳の時にはバッハ・ジュニア音楽コンクールで第1位に輝いた。名伯楽としても知られるザハール・ブロンからドイツへの留学を勧められ、樫本本人もドイツ留学を熱望、ドイツのリューベック音楽院へと渡る。家賃3万円のアパートに母親と2人暮らし、エアコンのある部屋で樫本が練習に励み、母親はキッチンで眠った。しかし、そんな母の思いやりが、当時は息苦しかったという。反抗期を迎え、いら立ちはエスカレート、ついにはヴァイオリンをやめてしまう。その危機を、どのように乗り越えたのか?
その後、再びヴァイオリンを手にした樫本は、立て続けにヨーロッパのコンクールを制覇していく。新人演奏家の登竜門「ロン・ティボー国際音楽コンクール」では歴代最年少の17歳で優勝を果たし、地元メディアは“神は大人の衣装をまとった子どもに全てを与えた”と絶賛した。
ソリストとして一躍脚光を浴びた樫本が新たな夢に向けてかじを切ったのは、29歳の時。オーケストラへの挑戦だった。目指したのは、天下のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。それから10年弱、今もベルリン・フィルに在籍する樫本は現在37歳になる。コンサートマスターに選ばれてから7年が過ぎ、今新たな夢が芽生え始めているという。その夢とは?
2007年からは、自ら音楽監督を務め、国際音楽祭を開いている樫本。会場は、母親の故郷である兵庫県の赤穂市と姫路市。この音楽祭には、彼の呼びかけで、これまで世界トップクラスの音楽家が出演してきた。出演料はただ、チケットは一律千円という破格で催される利益度外視の音楽祭に込められたその思いとは?
インタビュアーを務めるのは、春風亭小朝。大のクラシック通で知られる小朝が、名門オーケストラの意外な実態から舞台裏、さらに天才ゆえの苦悩まで、樫本大進の飾らない本音に鋭く切り込んでいく!

7月3日(日) ゲスト:舘鼻則孝 (アーティスト)

アーティスト・舘鼻則孝。
1985年、新宿歌舞伎町で銭湯を営む家庭に生まれた。神奈川県の鎌倉で育ち、本物のノコギリやトンカチで工作をするユニークな方針の幼稚園に通う。人形作りの講師をしていた母親の教育方針は、「欲しいものや遊びたいものがあるなら、自分で作りなさい」。幼いころから、“ものづくり”が身近にある環境の中で育てられた。
中学生になると、ファッション雑誌のとがったセンスに夢中になり、ファッションデザイナーを志す。15歳の時には、見よう見まねで革靴を作り、表参道や青山のブティックの店員に見せて回った。
2006年、東京藝術大学美術学部工芸科に入学。“染織”を専攻し、生地の染め方や、着物づくりを学んだ。日本の文化を勉強した背景には、「世界で戦うには、自分にしかないアイデンティティーを使う以外にない」という信念があったから。卒業制作では、花魁(おいらん)の高下駄から着想した“ヒールレスシューズ”を作る。自信満々で提出したものの、周囲の反応は冷ややかだった。納得のいかない舘鼻は、“ヒールレスシューズ”の写真を世界中のファッション関係者やブロガーなど100人以上にメールで送った。しかし、返事は3通のみ。ところが、そのうちの1人が、レディー・ガガ専属のスタイリストだった。世界のファッションリーダーが認めた“ヒールレスシューズ”は瞬く間に海外セレブ御用達アイテムとなり、次々と制作依頼が舞い込んだ。
しかし、舘鼻はそこに安住することなく、靴づくりと並行して、新しいアートの形を模索してきた。それが、伝統工芸の職人たちとの作品づくりだ。跡取りがおらず、消えゆく“職人芸の価値”をアートを通して世界に発信しようと考えたのだ。昨年12月には、その成果を発表する展覧会を開催。さらに今年3月には、「人形浄瑠璃文楽」の公演をフランス・パリで行い、演出をはじめ、衣装や小道具まで担当した。
インタビューの舞台は、表参道の片隅にある舘鼻のアトリエ。15歳の時に初めて作った靴や、大学の卒業制作「ヒールレスシューズ」第1号などを実際に見せてもらいながら、当時の心境や創作秘話に耳を傾ける。わずか31歳で、世界的なアーティストになりえた訳とは? そして、斬新なアートを生み出す発想はどのように生み出されるのか?
インタビュアーは、熱血なイメージとは裏腹に、美術館巡りが趣味という松岡修造。世界を駆け回る若き天才の秘めたる思いに、松岡が熱く迫る!