ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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6月4日(土) ゲスト:石毛宏典 (野球評論家)

野球評論家、石毛宏典。
80年代、西武ライオンズは7年間で2度の日本シリーズ3連覇という日本野球史に残る金字塔を打ち立てた。そんな黄金期を支え、次期監督とまでいわれていた石毛だったが、監督要請を受けるとそれを断り、西武を飛び出してしまう。その後は、他球団への移籍、引退、渡米、三年の監督契約を途中降板、独立リーグを立ち上げるも離脱…と波乱に満ちた道を歩んできた。周囲からは理解されにくい数々の選択には、どのような理由があったのか? 
子どものころからスポーツが得意だった石毛は、野球は“遊びの一環”という程度だった。中学の時に先輩から理不尽な体育会系指導を受けたことがトラウマとなり、高校では野球を続けるつもりはなかったという。それでも抜群のセンスは周囲の注目を浴び、高校・大学と野球を続けることに。大学卒業時も、プロ入りは頭になく、社会人野球のあったプリンスホテルに就職。接客業は肌に合い、支配人を目指していたという。
このころ、「プロになって学費を返せ」と親に叱咤(しった)されたことがきっかけとなり、プロ入りを決意。そこで待っていたのは、当時の監督・広岡達朗氏の徹底した管理野球だった。「お前が石毛か? 下手くそだな」と初対面で言われた石毛は猛反発、広岡監督の指導を素直に聞かない日々が続く。しかし、そんな石毛の態度が変わったのは、周囲の選手のある変化だったという。その時の状況と心境を、石毛が赤裸々に語る。
40歳が目前に迫ったころ、監督だった森祇晶氏の勇退が決まり、石毛が次期監督に推薦された。しかし、石毛は周囲の予想を裏切り、これを固辞。さらに、西武ライオンズから他球団へと移籍してしまう。「自分でもあと数年で引退とわかっていた」という石毛だが、ある一つの事態が彼の現役への執念をかき立てた。その出来事とは? 
また、引退後の波乱の人生についても激白する。「走ってよし、投げてよし、打ってよし」と絶賛された男の人生は、周囲の人々に大きく影響され、振り回されてきたものだった、と振り返る。西武からの監督要請を機に、自らの強烈な意志で動き始めた石毛。そこには、内から湧き出した熱い情熱があった。
引退から20年、今、石毛の胸に後悔はあるのか? 常に熱い思いを持ち、人生を駆け抜けてきた男が、波瀾(はらん)万丈の野球人生を振り返る!

6月5日(日) ゲスト:真山仁 (小説家)

小説家・真山仁。
1962年生まれ。読書が大好きだったという真山少年を一言で表すならば、まさに“あまのじゃく”。小学生の時、学級会で「なぜ夏休みに家で宿題をしなければならないのか?」という議題を提案、「行動の自由を侵害している」と訴えて、周囲を驚かせたという。またある時は、夏目漱石の「こころ」の読書感想文を“日本で最も素晴らしい犯罪小説”と評し、教師から大目玉をくらう。幼いころから独自の視点を持つ真山の、奇想天外なエピソードが次々に飛び出す。
小説家を目指したのは高校生の時。自分の好きな作家に新聞記者が多いことを分析し、当時記者を多く輩出していた同志社大学に入学。その後、中部読売新聞(現・読売新聞中部本社)に入社し、新聞記者になる。今も小説を書く際に、大きな財産になったという新聞記者時代の取材テクニックとは?
2年半で新聞記者を辞めた真山は、小説家を目指し、数々のコンクールに応募するがことごとく落選。その後、13年間フリーライターとして活動する。その時、真山に大きな影響を与えたのが、ピアニストのフジコ・ヘミングさんや歌舞伎俳優・五代目 坂東玉三郎さんなど、超一流の人物だった。真山に衝撃を与えた彼らの“金言”が語られる。
2004年、「ハゲタカ」で作家デビュー。外資系のファンドマネージャーの主人公が、バブルの後遺症に悩む日本企業を次々と買収し、死肉をむさぼる“ハゲタカ”のように利益をあげていく様が描かれている。この小説はシリーズ化され、累計200万部を突破。真山は、一躍人気作家の仲間入りを果たした。インタビューでは、「ハゲタカ」の制作秘話や、未来を予見するかのような真山ワールドが、赤裸々に明かされていく。
現代社会の光と影に注目し、常識のウソに鋭く切り込み続ける作家・真山仁。そんな真山に挑むのは、編集者の石原正康。編集者の石原だからこそ引き出せる、真山の知られざる素顔とは?