ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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2月20日(土) ゲスト:谷部金次郎 (元・天皇の料理番)
元"天皇の料理番"谷部金次郎。
ブリキ製品を扱う店の末っ子として生まれ育ち、中学時代には家計を支えるため、食堂でアルバイトを始めた。中学を卒業すると高校進学は諦め、職を探しに東京に住む義兄のもとへ。日本銀行クラブで働くことになった谷部だったが、その直後に義兄の紹介で、宮内庁大膳課の調理の手伝いをすることに。そこで谷部は、宮内庁大膳課・初代主厨長の秋山徳蔵と運命の出会いを果たす。当時は、"天皇の料理番"を夢みるどころか存在すら知らなかったという谷部だが、秋山との出会いが人生の大きな転機になった。
翌年、大膳課に欠員が出たタイミングで試験に挑戦し、見事合格。天皇皇后両陛下のため、いい食材を使って豪華な食事を作れるように全力を尽くそうと意気込んでいた谷部だったが、思いもよらない事実を知ることになる。賓客を招く宮中晩さん会や園遊会などは、谷部が考えるような豪華な料理であったものの、天皇皇后両陛下の日常の食事は、いたって庶民的な家庭料理だったのだ。そのギャップにショックを隠せなかったというが、時間が経つにつれて、天皇皇后両陛下の日々の健康と命を守る"家庭料理"こそ、最も大切なものだという考えに至る。
そんなある日、谷部は昭和天皇に直接お仕えする機会を得た。それは、皇族と旧皇族の間で開かれる親睦会だった。天ぷら屋台を任されていた谷部の前に、昭和天皇自らが注文をしにやって来る。「あなごとしそを」「はい、かしこまりました」たったそれだけの会話だったが、大きな威厳を感じた谷部は、生涯昭和天皇にお仕えしようと決意する。以後、昭和天皇崩御に至るまでの間、昭和天皇一筋に仕えてきた。そして、幾度となく運命的な場面に遭遇することになる。
昭和63年9月19日、昭和天皇の体調が乱れ、吐血をされた日。この日の最後の食事を作ったのは谷部だった。そして、それが固形物として最後の食事となる。その後も、決して自ら注文をなさらなかったという昭和天皇が、くず湯を所望され、調理を任されることに。崩御に至るその裏で、当時料理番を務めていた谷部だからこそ語ることのできる昭和天皇の素顔とは? さらに、大膳課でなければ学ぶことのできなかった教えとは?
インタビューの舞台は、武蔵野調理師専門学校。インタビュアーのスポーツキャスター・松岡修造が、独自の視点から谷部金次郎の「裸の履歴書」をひもとく!
2月21日(日) ゲスト:立木義浩 (写真家)
女優写真の第一人者、写真家の立木義浩。
1937年、徳島県生まれ。父は明治時代から続く老舗写真館を経営するかたわら、文部大臣賞を受賞するほどの腕前を持つ、新進気鋭の写真家だった。母・香都子も、写真館で人々の晴れ姿を撮り続けた。太平洋戦争の苦難を、持ち前の明るさで乗り越えた母の半生は、NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデルにもなった。そんないわば"写真の名門"で生まれ育った立木が、初めてカメラを手にしたのは、高校2年生の時。スクリーンの中のジェームズ・ディーンを撮りたくて、大阪の映画館へ駆けつけたという。
高校卒業後、両親と同じ道を歩むため単身上京、東京写真短期大学に入学する。この時に出会ったのが、立木より5歳年上のアート・ディレクター、堀内誠一だった。後に「an・an」や「BRUTUS」「POPEYE」などのロゴを手掛け、天才とうたわれた人物だ。"特別の人間が好き"という堀内に認められたのか、立木は卒業後、堀内がいる広告制作会社アドセンターにカメラマンとして入社する。1959年、「週刊平凡」が創刊されると、堀内・立木のコンビはファッションコーナーを担当。撮影場所は、ラッシュアワー時の東京駅、砂漠に見せかけた鳥取砂丘、水中…。堀内の奇想天外なアイデアを、立木が持ち前の表現力で1枚の写真に切り取っていった。今見ても、半世紀以上前の作品とは思えないほど、少しも古びていない写真の数々…。無論、2人は当時の写真界に革命を巻き起こしていく。
1965年、27歳の時、デビュー作を世に送り出す。それが、雑誌「カメラ毎日」の付録として掲載された「舌出し天使」だ。無名の新人に託されたのは、異例の全56ページ。その中で立木が表現したのは、ボーイッシュな服装に身を包んだハーフの女の子が、部屋や町中を思いっきり走る、ただそれだけの写真だった。そこに天才的歌人・寺山修二が詩を添えた。迫り来るライブ感とエネルギーは見る者を圧倒し、立木はこの作品で、日本写真批評家協会新人賞を受賞。一躍、脚光を浴びることに。
6年後の1971年、立木の金字塔となる作品が生まれる。"小悪魔ロリータ女優"として人気を博していた加賀まりこの私生活を追った写真集だ。今では当たり前のことだが、当時はまだ女優の私生活をテーマにすることも、1人の女性としてヌードを撮ることも、前例のないことだった。寝起きのスピッンを撮るために自宅を訪ねたり、1ドル360円の時代に自腹でパリに同行したりと、2年間という歳月をかけ、加賀の私生活を撮り続けた。その撮影の舞台裏を赤裸々に語る。
写真の原点は記念写真、と語る立木は、1990年に写真集「家族の肖像」を世に送り出す。戦後50年、核家族が増え、家族の形態が変わりつつある"今"を捉えた作品だ。2年の歳月をかけ、そうそうたる著名人の100家族を撮影した。撮影現場は自宅が8割以上、全ては立木のこだわりであるモノクロ写真によって切り取られた。この写真集で立木が表現したかった、"家族"とはどのようなものだったのか?
彼がこれまでに撮影した女性は、時代を代表する大女優から一般の女性まで、ゆうに1万人を超える。立木が今思う、美しい女性とは? さらに、高倉健、松田優作、北野武、伊丹十三…など、数多くの名だたる男性もカメラで捉えてきた。普段、めったに笑った写真が撮れないという北野武の笑顔の1枚は、いかにして撮影されたのか? さらに、78歳になった立木が考える"写真の力"とは?