ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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12月19日(土) ゲスト:美川憲一(歌手)
歌手・美川憲一。
1946年、長野県諏訪市生まれ。実の母は美川を身ごもった時、相手の男性に別の家庭があることを知り、ひとりで出産、育てることを決意した。しかし美川が2歳の時、実の母が肺結核にかかり育児を断念。東京の新橋に暮らす母の姉夫婦のもとへと預けられることになった。叔母の家で育てられた美川は、叔母を本当の母親だと思い込み、暮らしていたという。実の母の存在を知ったのは、中学1年生の時だった。
2人の母親を苦労させまいと、早く働きたいと考え、美川は芸能界へと歩みを進めた。親には内緒で高校を中退、東宝芸能学校への入学を決める。そして大映ニューフェイスに合格、役者の道が開けた。しかし、ちょうど同じころジャズ喫茶でスカウトされ、将来のことを考えた美川は、歌手の道を選択する。その理由は何だったのか?
歌手デビュー翌年には、「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚の大ヒット。ヒットの理由や、レコーディング直前に一度クビになった裏話など、ミリオンセラーに隠された知られざるエピソードを語る。さらに、「釧路の夜」で、紅白歌合戦に初出場。まさに順風満帆、スターの道をまっしぐらに駆け上がっていった。
しかし、その後レコードの売り上げが落ち、さらに自らが起こした事件をきっかけに、芸能界から遠ざかっていく。そんな美川が再び脚光を浴びるきっかけとなったのは、モノマネタレント・コロッケの存在だった。実は、コロッケが美川のモノマネを始めたのは、美川がコロッケにモノマネを提案したのがきっかけだったという。その真相とは?
インタビューが行われたのは、美川行きつけの六本木の鉄板焼きの店。公私ともに親交のあるタレント・はるな愛がオーナーを務める。そんなリラックスした雰囲気の中、インタビュアーの小島慶子は、「美川さんは男? 女?」「結婚を考えていた?」「紅白歌合戦に落選した時の気持ちは?」など、単刀直入に疑問をぶつけていく。そして、もうすぐ70歳を迎える美川が、自身の"終活"について初めて口を開く。波瀾(はらん)万丈でドラマティックな人生を歩んできた美川が語る、リアルな"生"と"死"とは?
12月20日(日) ゲスト:岩崎宏美(歌手)
歌手・岩崎宏美。
東京都江東区で育った岩崎は、ある日テレビで同い年の少女がスターになるのを目撃する。それが、「スター誕生」で見た森昌子だった。「子供でも歌手になれるんだ。それならば、自分も歌手になれるのかも…」と考えた岩崎は、オーディションを受け、ついにはグランドチャンピオンとなり、歌手デビューを果たした。
16歳の新人歌手にも関わらず、デビュー作を作ってくれたのは、人気作詞家の阿久悠だった。岩崎は阿久の切ない歌詞に、胸の内を見透かされているかのようだった、と振り返る。中には泣いて歌えなくなるほどの曲まであったという。
その後、サスペンスドラマのエンディングテーマとして誕生した「聖母たちのララバイ」が、岩崎の大きな転機となった。当初レコード化の話もなく、ワンコーラスだけの録音だったが、放送されるや人気は急上昇、カセットプレゼントには応募が殺到した。急きょ、フルコーラス版を作り、録音し直すことになったという。自分の中に「戦士や戦場という言葉がなかった」ため、ふに落ちないまま歌っていたが、ある経験を通して歌詞の意味が全て理解できたという。その経験とは?
デビューから快進撃でトップスターに上り詰めた岩崎は、30歳で結婚し、2児を授かった。「飯ごうで2回ご飯を炊いたことがあるだけ」の経験で主婦になり、苦労も多かったと語る。しかし、"初めてもらった主婦という役"は楽しかったと振り返る。実は子どもが苦手だったという岩崎が、自分の子に対しどのように接してきたのか? そして、その後離婚し、まだ幼い息子2人は父親が育てることに。つらかった離別を今、振り返る。
デビューから40年。常に全力で駆け抜けてきた歌姫・岩崎宏美は、持ち前の明るさで歌謡界に君臨し、人生の難局も乗り越えてきた。「みなさんの青春の1ページに私の歌があることが、私の誇り」と、最後に岩崎は語った。