ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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10月31日(土) ゲスト:野村克也(野球評論家)

野球評論家・野村克也。南海ホークスのテスト生として入団したにも関わらず、8年連続のホームラン王、戦後初の三冠王と、選手時代の成績は燦然と輝くものばかり。また監督時代は、今では当たり前のようになっている"データ野球"を初めて取り入れ、弱小球団を次々と再生、日本屈指の名将としても名を馳せた。しかし、決して天才肌ではなかったという野村。果たして、弱者が強者に勝つための「野村イズム」とは!?

1935年、京都府網野町生まれ。3歳の時、父親を日中戦争で亡くし、食べたい物も食べられない貧困生活を余儀なくされる。そんな中、兄と自分を1人で育てる母を「楽にさせたい。お金持ちになるためにはどうすればいいのか」と思い悩んだ。その時、野村が夢見た職業は、野球ではない、意外なモノだった。

その夢が破れ、野球を始めたのは中学3年の時。球技が得意だった野村は、チームを京都府大会の4強に導いた。高校に進学しても、1年生ですぐにレギュラーの座を掴むが、チームは地区予選1回戦負けが常という弱小チーム。

そこで南海ホークスの入団テストを受ける決意をする。そして、みごと合格。これでお金持ちになれると思ったのも束の間、理想と現実の違いを目の当たりにする。入団して与えられた役目は、ピッチャーが練習する時にボールを受けるだけの通称「かべ」。まともな練習をさせてもらえず、突然の解雇宣告。この時、ある作戦で野村はクビを回避した。その作戦とは!?

王や長嶋のように、決して天才肌ではなかったという野村。しかし1957年、初の本塁打王に輝くと、次々と記録を塗り替える偉業を成し遂げる。その秘訣は、徹底的に相手の攻略を探ること。野村野球の代名詞「ID野球」の萌芽だった。野村が見抜いた"投手のクセ"、そして打者を封じ込めた"ささやき"とは一体何なのか?

さらに、剛腕・江夏豊をリリーフ投手のパイオニアとして再生させた知られざる舞台裏。長嶋茂雄、王貞治、イチローなど、天才打者との対決秘話。現在の日本プロ野球へのボヤキ・・・。野村節が炸裂する!

11月1日(日) ゲスト:岩代太郎(作曲家)

今年50歳を迎えた作曲家、岩代太郎。国境を越え、映画音楽などの制作に関わっている。
インタビュアーであるヤン・ヨンヒも、かつて初の劇場映画を監督した際、岩代太郎に音楽を依頼した。その時以来、4年ぶりの再会だ。

岩代太郎は、少年時代、音楽の英才教育を受けることなく自由に育った。そのため小中学校での音楽の成績は落ちこぼれ同然だったという。そんな中、10年かかっても無理と言われた難関、東京芸術大学作曲科に入学。そこで過去の名だたる作曲家、ドビュッシーやベートーベンに、ある不思議な感情を抱いたという。その感情こそが、岩代太郎の音楽制作の原点となる。

今では、世界中の映画の音楽制作に携わるようになったが、その中でも岩代太郎の転機となったのがジョン・ウー監督作品「レッドクリフ」だ。様々な国からスタッフやエキストラ、出演俳優を集めたジョン・ウーの哲学に触れ、ボーダーレスな映画界の素晴らしさを体験したという。さらに、岩代太郎だけが見たジョン・ウーとの貴重な瞬間とは?

さらに、話は4年前のヤン・ヨンヒ監督作品「かぞくのくに」へ。「かぞくのくに」は在日朝鮮人2世であるヤン監督がドキュメンタリーで描けなかった自身の半生を、劇映画化した特別な作品だ。そんな作品に音楽を付けた岩代太郎。4年前の思い出、そして岩代太郎が今でも後悔しているというあるシーンを告白、その真意を語る。

世界で仕事をする岩代太郎が、現在の不穏なアジア情勢の中、音楽を通してできる、ある希望を語る。それは2020年の東京オリンピックという晴れの場。岩代太郎が思い描く未来像とは?