ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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9月26日(土) ゲスト:筒井義信(日本生命社長)
"真に最大最優、信頼度抜群の保険会社"をモットーに掲げる、日本生命保険相互会社代表取締役・筒井義信にタレント、エッセイストの小島慶子がインタビュー。
筒井は大学を卒業して日本生命に入社、そこからおよそ40年近く、ひたむきな姿勢で日本生命を支え続け、2011年…7万人の職員の頂点に達する。何千人もの競争の中から選び抜かれた筒井、その秘訣とはいったい何だったのか?筒井が日頃大切にしている姿勢から、7万人をまとめ上げる経営術、目まぐるしく変わる保険業界を勝ち抜くための人材育成術まで、その手腕に迫る。
「♪ニッセイのおばちゃん 今日もまた~…」
日本生命と言えば、自転車で街を駆け抜ける"セールスレディ"の姿が目に浮かぶのではないだろうか。
私たちの身近にあり、"安心"を保証してくれる生命保険。その新規契約を常に開拓し、全国にいる約1157万人の保険加入者を献身的に支えるのが、全職員7万人の内、5万人にも達する営業職員、通称"セールスレディ"だ。
日本生命の全職員の内、女性の割合は90%。営業職員にいたっては99%を占める。この環境を活かし、日本生命の更なる発展に向けて筒井が打ち出す人材育成制度は、どれも改進的だ。
女性幹部の更なる増員を目標とした幹部候補生の育成をはじめ、育児参加に積極的な理解を示す上司「イクボス」の育成に力を入れる他、近年は男性の育児休業率取得100%を達成。「女性活躍」が声高に叫ばれる昨今、既存の常識にとらわれない、現場を重視した環境が作り出されている。
こうした制度が実行される根底には、筒井が支社長として出向いた営業現場での経験が大きく影響しているそうだ。ある企業との保険契約時に、同行した女性営業職員から告げられた衝撃の一言…"支社長は何もおっしゃらなくて結構です"。この言葉の真意とは?現場で大切にされているものとはいったい何なのか?"真にお客様のことを考える"…その姿勢の大切さについて筒井は語る。
また注目すべきは、筒井のトップリーダーとしての"聞く"姿勢だ。若手育成のために筒井は"どのような話しでも最後までしっかりと聞く"という事を大切にしているという。またそのことが"言いたいことが言える"社風にも繋がっているそうだ。もの静かな顔つきと、鋭い眼差しから語られる言葉は、すぐに活かせるものばかりだ。
外資系保険、インターネット保険の参入、様々な商品を比較検討できる保険ショップの出現など、目まぐるしく変っていく保険業界…それに加えて若者の保険離れ、少子高齢化、"家族"の在り方の多様化…など生活者のライフスタイルも大きく変化している。この"保険戦国時代"とも言える環境を、どのように勝ち抜いていくのか?筒井流経営術から人材育成術まで、その秘訣に迫る。
9月27日(日)
終戦70年特別編 未公開映像公開! 戦争を語り継ぐ人たち
第169回の放送は…終戦70年特別編として、これまで数々のトップランナーが語った“戦争体験”を、未公開映像も含め特別に抜粋。当時少年少女だったが彼ら彼女ら見た戦争とは…。そして、これからの日本へ抱く思いとは…。語り継ぐのは次の10名。
<半藤一利>
1954年3月10日未明。
B29による焼夷弾は、民家を焼き尽くし、およそ10万人の命を一夜にして奪いさった。「東京大空襲」…その生存者として当時の状況を語るのは、作家・半藤一利。膨大な資料によって裏付けされた証言だけでなく、当時15歳だった自身の体験から語られる言葉は、今もなお生々しく突き刺さる。
<奈良岡朋子>
劇団民藝の代表を務める女優・奈良岡朋子も東京大空襲を体験した一人。
死の恐怖を目の当たりにした後、弘前へ疎開した彼女が感じた終戦への思いは、周囲の人々とは違ったものだったという。
<倉本聰>
時同じくして、東京大空襲を目にしていた作家・倉本聰。
当時10歳…自然と共に暮らしていた倉本が語る、少年少女たちの生活とは。
<千玄室>
戦況が悪化を極める中、特攻隊として出撃待機をしていた、裏千家・千玄室大宗匠。
茶道470年余りの伝統を受け継ぐ千玄室は、先立つ仲間に、最期のお茶を立てたこともあったという。特攻隊の生き残りとして、後世に語り継ぐ想いとは…。
<なかにし礼>
広島の被爆から3日後…8月9日、長崎に原子爆弾が投下されたその日、満州ではソ連軍による侵略が進行していた。作家・作詞家のなかにし礼は、その爆撃を命からがら生き延びることとなる。そして、この体験がなかにしの創作活動に大きく影響したという。実体験を元にした小説「赤い月」が語る悲惨な現実とは…。
<藤城清治>
1945年8月15日、玉音放送によって知らされた終戦。
その直前、九十九里浜の沿岸警備にあたっていたのは影絵作家・藤代清治。
訓練の合間で行う人形劇が唯一の生きがいだったという藤城は、敗戦を知り、手元にあった人形の行く末を案じたという。
「人形を100個くらい砂浜に埋めた」…その行動に込められた想いとは。
<笹本恒子>
終戦間際の混沌とした時代を、カメラを通じて記録し続けた、笹本恒子。
日本発の女性報道写真家として、足を踏み入れたのは1940年。
連合国軍の占領下に置かれた日本の当時を、ありのままに記録した写真を通し、今もなお敗戦国としての現実を語りかける。
<与勇輝>
2011年…73歳にして、忌まわしい過去と向き合う決意をした、人形作家・与勇輝。どれだけ時が経とうと、いつかは戦争当時に感じえていたものと立ち向かう必要があると感じていた与は、子どもの人形作りを通して、自身の戦争体験を表現する。
しかし現実に見た光景よりも汚い人形は作れないという…その理由とは。
<大橋巨泉>
2015年4月…天皇両陛下のパラオ訪問に際し、大きな共感を感じていたのは、タレント・大橋巨泉。“自分の祖国をこんな状態に二度としてはいけない”…そう強く願う原点は、疎開から戻った時に目の当たりにした「東京の焼け野原」だったという。
戦後民主主義の在り方から、今後の日本の在り方について独自の視点で語る。
<瀬戸内寂聴>
戦後続いているはずの「平和」に対して抱かれる漠然とした不安――。
また戦争に歩み寄っているのではないか、と警鐘を鳴らすのは、尼僧・瀬戸内寂聴。
「自分が経験しないことは分からない。だから想像力が必要」――寂聴が吐露する、戦争の恐怖とは。