ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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6月27日(土)ゲスト: 玉塚元一 (株式会社ローソン代表取締役社長)
株式会社ローソン代表取締役社長・玉塚元一がゲスト。
ファーストリテイリング社の柳井正、ローソン元会長・現在はサントリー社長の新浪剛史、日本を代表する二人のカリスマ経営者から見いだされた若き経営者である。インタビュアーを担当するのは、AERA編集長、浜田敬子。
新光証券(※現みずほ証券)の祖にあたる玉塚証券の創業者一族に生まれ、慶応義塾幼稚舎から大学までの慶応育ち。ラグビーで鍛えた引き締まった体躯に甘いマスク。53歳という年齢…。「プリンス」という言葉がピッタリと当てはまる若きリーダーの生立ち以上に驚かされるのが、その華麗な経歴だ。
柳井正と新浪剛史、2人のカリスマ経営者に薫陶を受け、学んだ事とは?カリスマ経営者2人が、玉塚を後継に指名した理由とは?ラグビーで培った超人的な体力と根性、そして組織論に思考法…。
キャプテン型ともいうべき、新たなリーダーの、貴重なロングインタビューは、ビジネスマンは勿論、全ての働く人々にとって必見の内容となった。
実は今年は創業40周年というローソン。メモリアルイヤーだ。
前会長である新浪剛史から指名を受け、大手コンビニチェーン・ローソンのトップに立った玉塚。既に2011年には副社長として、コンビニ事業の責任者だったため、仕事として大きく変わることはなかったはずだが、やはりNO.2として決定を下すのと、トップとなり決定を下すのでは、責任もプレッシャーも全く違う。思わず逃げ出したくなるような過酷な毎日だが、そんな状況でも玉塚はある方法で乗り越えてきたという。
そんな玉塚の原点ともいえるのが、慶応で中学から始めたラグビーだ。大学時代、当時、目立った選手がいないチームだったが、猛烈な練習量と根性で一丸となり鍛え上げ、ついには最強といわれた同志社大学と、全国大学選手権の決勝戦を争うまでに成長をする。その経験が今の玉塚にとって大きな糧になったと語る。
大学卒業後、海外を飛び回るビジネスマンになりたいと旭硝子に入社。英語は全く喋れないながらも海外赴任を希望、努力と根性で乗り越え、ついにはアメリカに留学、MBAを取得するまでになる。全く英語が出来ず、海外赴任当初は相当苦労したそうだが、その時ピンチを救ってくれたのもラグビーだったという。
子供の頃から「いつかは経営者になりたいー」という想いを抱いていた玉塚。その時期とタイミングを見計らっていた時、出会ったのが、あの柳井正だった。ファーストリテイリングに入社後、瞬く間に頭角を現し、社長に就任。しかし3年後、退社。社長退任から10年、今、柳井に対し、思うことは?そしてその後の二人の関係性は?玉塚がその真相を赤裸々に語り始めた…。
その後、仲間と共に起業。当時赤字に転落したロッテリアから依頼を受け、経営再建に着手し、玉塚らが仕掛けた「絶品チーズバーガー」は、発売後わずか4日で売り切れとなり、2500万食を売り上げる大ヒットを記録した。更にアメリカのドーナッツチェーン「クリスピークリームドーナッツ」の日本進出を手掛けたのも、何を隠そう玉塚だ。
経営とは何か?組織とは?そしてトップのあるべき姿とは?
柳井正と新浪剛史という二人のカリスマ経営者から、奇しくも後継に指名された玉塚。何故玉塚だったのか?硬軟織り交ぜたインタビューをしながら、唯一無二の経験を持つ若きリーダーの実像をAERA編集長、浜田敬子が紐解いていく。
6月28日(日)ゲスト:釜本邦茂 (元サッカー日本代表)
元サッカー日本代表・釜本邦茂にテレビ朝日スポーツコメンテーター・宮嶋泰子が迫る。20世紀、日本サッカーが生んだ最高のストライカーと評され、1968年のメキシコオリンピックでは7得点2アシストで得点王となり、日本チームの銅メダル獲得に大きく貢献した釜本。
大学時代、4年連続で関東大学リーグの得点王、ヤンマー・ディーゼルでは251試合出場で202得点を記録。1968年敢闘賞受賞、得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、年間最優秀選手賞7回受賞など、様々な前人未到の記録を残した。
小学校でサッカーを始め、中学時代は夢中で練習に励み、高校時代の頃、のちに「日本サッカーの神」と呼ばれるデットマール・クラマー氏の講習を受けて人生観が大きく変わる。大学は早稲田へ進学し、クラマー氏から教わった“考えるサッカー”を常に意識した練習を重ね、東京オリンピック出場選手に選ばれた。だが結果を出せず不完全燃焼に終わる。
時を経て4年後、東京五輪のリベンジを果たすべく臨んだ、メキシコ五輪。時差ボケや酸欠など日本人選手にとっては悪条件が重なる中、なぜチームは大勝できたのか。釜本の7得点という驚異の活躍が起こりえたのか。「世界の釜本」誕生の瞬間には、どのようなドラマがあったのか?
得点王として名をはせた日本最高のストライカーは、帰国後も天皇杯優勝など快進撃が止まらない。そんな彼を襲った『ウィルス性肝炎』。当時は生死さえ左右する大病だった。ドクターストップがかかり、50日間の入院生活。エースを失ったチームは大敗し、釜本自身もリハビリに苦しんだ。その時のどうしようもない心の痛み、そしてそれを乗り越えてきた辛い日々を、昨日のことのように振り返る…。
結婚は早く、今は大学生の孫もいる釜本。選手として大活躍するかげに妻の内助の功があったのも事実。「頭が上がらない」「私は手の上で転がされている」などの、いつものビッグマウスらしからぬ一面も。姉は現在ブラインドサッカーという目の不自由なサッカー選手が試合をする競技の協会長を務めている。妻や家族への優しい言葉の端々に、釜本の温かい素顔が垣間見えた。
釜本邦茂、71歳。今なおサッカーを語るその眼はキラキラと輝き、ことだまは熱く、強く、観る人の心に何かを残すだろう。