ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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5月2日(土)ゲスト:夏まゆみ (ダンスプロデューサー)

つんく♂プロデュースの“モーニング娘。”、そして秋元康プロデュースのAKB48、平成のアイドルブームを盛り上げる二大アイドルグループのパフォーマンスを影で支えた、ダンスプロデューサー・夏まゆみの素顔に、スポーツキャスター・松岡修造が迫る。

つんく♂や秋元康が“アイドルの父”ならば、夏まゆみは“育ての母”といっても過言ではない。オーディションで選ばれた素人同然の女の子たちを、輝くアイドルに育て上げた夏まゆみの指導論とは…?自身も少年達にテニスを教える松岡は、その神髄に迫ろうと鋭く切り込んでいく。熱き男と熱き女の真剣勝負は最後の最後まで目が離せないものとなった。

インタビュー当日、松岡修造はいつもとは違う、鮮やかなオレンジのジャケットで現れた。その姿はまるで「サタデー・ナイト・フィーバー」のジョン・トラボルタ。
「踊ったりはしないよ」と笑う松岡だったが、熱血指導で“女・松岡修造”と呼ばれる夏まゆみに対する興味は、インタビュー前から溢れ出していた。

オーディションから、ダンス指導、ステージパフォーマンスまで、素人同然の女の子を輝くアイドルに育て上げた、その手腕…。かつては鬼とまで呼ばれたその指導に隠されていた秘密とは…。松岡は自身のテニス指導と重ねながら、その真実を明らかにしていく。

そして、松岡は50歳を過ぎてなお踊り続ける“ダンサー”の夏まゆみにも注目した。
若かりし頃、ニューヨークの名門・アポロシアターの舞台に立ち、アメリカ人にも絶賛された夏のダンス。他人に振り付けをしたり、アイドルをプロデュースするのではなく、どうして、夏はダンサーひと筋で生きてこなかったのか?松岡の疑問に、夏は人生の分岐点となった出来事を明かす。

いつものインタビューより、十倍は身振り手振りが多くなった松岡修造。夏の言葉から感じたダンスの魅力に惹かれ、体を動かさざるを得なかったようだ。スターを育て、独り立ちさせる夏まゆみの心意気に迫る。

5月3日(日)ゲスト:藤城清治 (影絵作家)

影絵作家・藤城清治に野際陽子が迫る。今年で91歳を迎える藤城は創作活動70年を超える。衰える事のない創作意欲の原点と今後の挑戦に迫ってゆく。

メルヘンチックでファンタジックな影絵を作り出してきた藤城。夢のように輝く光の色彩。光と影の芸術の世界は見るものを引き付ける。豊かな表現の源とは?そして91歳の今も創作し続けるその衰えない創作意欲に迫る。

インタビュー場所は栃木県那須高原にある2013年開館の藤城清治美術館。モノクロの初期の物から、近年制作されたものまで、約150点の作品が展示され、藤代の集大成ともいえる場所で行われた。

美術館を藤城の案内で鑑賞していく。野際は作品に感動しながらも藤城ワールドの経緯に迫ってゆく。中には一風変わった物も展示されていた。そこには誰も知る事のない藤城の思想があった。一体、光と影の芸術で何を伝えようとしているのか?その真意に野際陽子が迫る。

1943年に学徒出陣で出兵した藤城が、唯一楽しみにしていたのが人形劇を披露する事だったという。仲間達に人形劇を披露していたのだ。戦争が終わった時、人形をすべて砂浜に埋めたと藤城は言う。当時の心境は?

藤城が総監督を務める劇団「木馬座」。1966年、等身大ぬいぐるみ劇を開催し子供たちの人気者になる。その中で生まれたキャラクター「ケロヨン」は大反響を呼び爆発的なヒットとなる。11回開催された日本武道館での公演も大盛況。そんな中、突然「木馬座」は解散。今だから話せる当時の苦悩を赤裸々に語る。

メルヘンチックでファンタジックな世界観を描いてきた作風が近年変化し、日本の風景をデッサンし始めた。そこには影絵作家として残さなければいけない風景の存在に気付いた藤城の姿があった。写真ではなく実際に現地に足を運びデッサンし続ける藤城の姿を追う。

東日本大震災の後、被災地を訪ねガレキや倒壊した建物の風景をありのままにデッサンし作品にしてきた。悲惨な現状を絵に残す。そこには勇気をもって未来へ進んでほしいという藤代の思いが込められていた。

藤城は「僕は影絵作家と呼ばれたくない」と発言。新たに挑戦する事とは?