ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
バックナンバー
12月13日(土)ゲスト:甲斐よしひろ
『HERO(ヒーローになる時、それは今)』『安奈』などのヒット曲で知られる甲斐バンドを率いる甲斐よしひろ(61歳)。
1974年に福岡・博多で結成しデビュー、人気絶頂の1986年、突然解散の発表があり、その後、何度かの再結成と休止を繰り返しながら、今年でデビュー40周年を迎えている。
「僕らがデビューしたばかりのころ、日本のロックに市民権はなかった―」と語る甲斐。
当時マイナーだったロックを歌謡曲と肩を並べて初めてヒットチャートに送りこんだのが、ほかならぬ甲斐バンドだった。
ヒットチャートを登りつめると、ロックコンサートとは縁遠い場所で次々にライブを敢行。
先人がいない中、次々に初の試みを成し遂げ、マイナーな世界だった日本のロックをメジャーへと押し上げていく…。
甲斐の歩みは日本のロックが市民権を獲得していく歩みでもあった。
1953年、福岡・博多に理髪店を営む両親のもと、四人兄弟の末っ子として生まれた。バンドマンでもあった父の影響もあり、幼いころから様々なジャンルの音楽を聞いていたという。
その中でも衝撃を受けたのが、小3の時に出会ったリバプールサウンドだった。
ロックにのめり込みんだ甲斐はバンドを結成。高校生ながら福岡の伝説的ライブハウス「照和」で演奏をすることになる。
デビュー5年後、ヒットチャートを登りつめた甲斐バンドは、東京都庁がそびえる新宿副都心や大阪の花園ラクビー場など、それまでコンサートで使われなかった会場で次々とライブを敢行していく。新しいことにチャレンジする当時の思いを甲斐が語る。今回、その貴重なライブ映像も紹介する。
「音楽の話なら何時間でも出来る」と語る甲斐のトークは、舌鋒鋭く、ライブ映像同様、迫力満点。デビュー40年、還暦を越えてもなお、パワフルに活動を続ける61歳のロッカーの足跡に迫る!
12月14日(日)ゲスト:倉本聰
バブル景気の到来とともに、豊かさが急に加速した1981年。倉本聰は世の中と対極にあるテレビドラマを書き下ろす。大自然の中で逞しく生きる家族の物語、「北の国から」。日本中が涙した小さな家族の大きな愛の物語は、21年間にわたり放送され、テレビドラマの歴史に金字塔を打ち立てる名作となった。
果たして、倉本のどんな人生の歩みが壮大な物語を紡がせたのか?知られざる名作ドラマ誕生の原点…、その背景には知られざる秘話があった。
東京に生まれた倉本が、戦火を逃れた疎開先で体験した自然との共存。"食い物は自然の中にある"それを教えてくれたのは父と過ごした時間だった。
そして1963年、ニッポン放送に入社。若くして頭角を現し、本名、山谷馨(やまやかおる)の名でラジオドラマを、ペンネームの倉本聰でテレビドラマを手掛ける売れっ子脚本家に。その当時、倉本作品に出演した過去がある野際陽子が、44年間言えなかった質問をぶつけた。「あのドラマ以来、使ってもらえない理由はなにか?」。脚本家と女優だから語り合えるテレビドラマの舞台裏があった。
そして1973年。倉本聰は脚本家人生で大きな挫折を味わう。
NHK大河ドラマ「勝海舟」で、演出サイドと衝突し緊急降板。衝動的に東京を離れ、たどり着いたのが北海道だった。そして、北の大地で運命を変える出会いがあった。その人は演歌界の大御所、北島三郎。
倉本は北島三郎の付き人を志願し、その経験が作品づくりの価値観を180度変換させたという。曰く「サブさんと出会わなければ、北の国からは書けなかった…」。倉本が北島に学んだことを静かに語り出す。
また、知られざるもうひとつの倉本ワールドが…。
個展を開くほど熱を入れている点描画。太さが違うボールペンを巧みに使い分け、樹木を描いているのだ。作品に込められたメッセージとは?
そして来年80歳になる倉本聰は、今、新たな作品づくりへと動き出している。
原発事故で全町非難となった福島県の富岡町に何度も足を向け、物語を書き下ろしたのだ。タイトルは「ノクターン・夜想曲(やそうきょく)」。倉本が作品を通して、いま伝えなければならないことに、野際陽子が鋭く切り込んでいく。