ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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9月20日(土)ゲスト:宮本亜門

80年代、ミュージカルを演出できる人材が乏しかった日本に、彗星のごとく現れ、今や世界を舞台に活躍する演出家・宮本亜門(56歳)。2004年には、ミュージカルの本場、ニューヨークのブロードウェイで、アジア人初の演出家として『太平洋序曲』を上演。この作品は、演劇界のアカデミー賞と呼ばれる「トニー賞」で4部門にノミネート。ブロードウェイの演劇界を唸らせた。 その後、ミュージカルのみならず、オペラ、歌舞伎、企業イベントなど、幅広い演出をしている宮本。一見、才能に満ち溢れ、"明るく、いつも楽しんでいる"ように見えるが、実は「登校拒否」「引きこもり」など、紆余曲折の人生を送っていた。果たして、数々の逆境をいかにして乗り越えたのか?

生まれは、江戸時代から続く花柳界の町、東京・東銀座。 両親は駆け落ちの末、新橋演舞場の前に喫茶店を開業。店に来るのは、役者や 芸者ばかり。そして、母は元松竹歌劇団のレビューガールで大の芝居好き!そんな環境で育った宮本だが、小学生の頃、悩んだのは「友達がひとりもできなかったこと」。宮本の好きなことを理解してくれる同級生は誰もいなかったという。そんな疎外感に包まれた中、慶応大学出身の父は「勉強しろ」の一点張り次第にストレスで肥満になり、高校2年の時、学校には行かず、引きこもりの生活を送る。

しかし、あることが切っ掛けで"自分のやりたいことをやる"と決めた宮本は、引きこもりをやめ、ミュージカルの演出家を目指す。ところが、これからという時に最愛の母が急死、演出家として認めてもらえない葛藤…。またもや立ちふさがる大きな壁。

果たして、亜門はどのようにして乗り越えたのか?熱くエネルギッシュな宮本亜門ワールドの根底にあるモノを、インタビュアー舘野晴彦が紐解いて いく。

9月21日(日)ゲスト:鈴木敏夫

今や日本のみならず世界が注目するアニメーションスタジオ「スタジオジブリ」。 その礎を築き高畑勲・宮崎駿両監督の作品を世に送り出し続けてきたのが、プロデューサーの鈴木敏夫だ。

去年9月、宮崎監督が長編アニメーション制作からの引退を発表。あれから1年…、 転換期を迎えた「スタジオジブリ」に注目が集まる中、舵取り役を担う鈴木敏夫は、その未来をどう描こうとしているのか?これまで数々のヒット作を生み出し続けてきた「スタジオジブリ」の今に、週刊「AERA」編集長・浜田敬子が真剣勝負で迫る。

インタビュー場所は都内某所にある鈴木敏夫の仕事場。通称「れんが屋」。これまで数々の「ジブリ」作品について、スタッフらと激論が交わされてきた場所だ。

実は週刊「AERA」で特別編集長を務めた経験を持つ鈴木。実現したのは、それまで 全く面識のなかった浜田敬子からの一通の手紙がキッカケだったと言う。雑誌と言う作品を共に作り上げる中、浜田が鈴木に感じたのは、「夢」を生み出す仕事を生業にする一方で、現実を見据えた確固たる「ビジネス哲学」の存在だった。果たして、その根底には何があるのか?

インタビューで明かされたのは「風の谷のナウシカ」以降、30年に渡りタッグを組み続けてきた宮崎監督への、これまで語られることのなかった本音。そして、雑誌の編集者であった鈴木が、映画に人生を捧げる決意をした若き日のある出来事だった。さらに新生「スタジオジブリ」の船出を告げる最新作「思い出のマーニー」に込めた、新たな試み…。それは、これまで驚異的な歴代興行収入記録を叩き出してきた映画プロデューサー、鈴木敏夫の新たな挑戦だった。

番組では長編アニメからの引退宣言後、宮崎監督の初仕事となる「クルミわり人形と ネズミの王さま」展の様子や、鈴木の人格形成の元となった4千冊の蔵書が収められた書庫などを紹介。決して夢だけでは語り尽くせない「スタジオジブリ」の「現実主義」とヒットメーカー鈴木敏夫の「裸の履歴書」を鋭く炙り出す。