ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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8月30日(土)ゲスト:片岡鶴太郎

画家として独自の世界観で、展覧会が常に盛況になるほどの人気を博し、また役者としても渋い演技で確固たる存在感を示すなど、多彩な才能を発揮している片岡鶴太郎。アーティストとしてのイメージが定着した現在では、1980年代バラエティタレントだった姿を想像できない転身ぶりだ。 実はその変化を良くは思わない向きもあった。しかし、そこには片岡鶴太郎自身の、人生へ真摯に取り組む姿勢と、強い意志が貫かれていたことはあまり知られていない。編集者・石原正康が、片岡鶴太郎の真実に迫る!

2014年12月で還暦を迎え、画業20周年でもある今年、集大成とも言える展覧会が開かれる。この展覧会は自身のこれからを占う大切なものになると片岡は感じているという。還暦は人生の折返し地点と語り、60代を目前にして健康そのものという状態だ。その徹底した健康管理法を紹介しつつ、表現者・片岡鶴太郎が今後どこへ向かおうとしているのかを探る。

24歳でものまね芸人としてデビューすると「オレたちひょうきん族」などにレギュラー出演し、大ブレイクした片岡。最盛期にはレギュラー番組13本にも上るほどの人気ぶり。1986年には鶴太郎が生み出した言葉「ぷっつん」が流行語大賞大衆賞を受賞した。そういったギャグや世相を反映する言葉は、いったいどうやって生まれたのか、当時を振り返り、知られざる誕生秘話を語る。

また、32歳の時、周囲の反対を押し切りボクシングのプロライセンスを取る。同時に役者の道も歩み始めた。それを機に、その後バラエティには出演しないと宣言。周囲の誰をも驚かせた。その衝動的な行動の裏に何があったのか?その決断を支えたものは何だったのか?片岡がその驚くべき決断の元となったものを語る。

片岡が絵を描き始めるきっかけとなったのは、一輪の椿の花だった。片岡は椿の姿に何を見出したのか。その意外なテーマ性にも迫る。

片岡の作品には命が宿っていると語る、インタビュアー・石原正康。片岡の表現力に魅了された石原が、一流の編集者ならではの切り口で、エネルギー溢れる片岡鶴太郎自身とその作品の魅力に迫る。

8月31日(日)ゲスト:小椋佳

時代を超え、愛され続ける名曲を作り出す小椋佳。これまで2000曲を超える楽曲を創作し300人のアーティストに提供してきたヒット曲の仕掛人。一方で幹部候補生として将来を嘱望される銀行員でもあった。ヒットメーカーとサラリーマンの2つの顔を持っていた小椋佳の人生に、女優・野際陽子が迫る。

インタビュー場所は、小椋が東京大学時代に通い詰めた喫茶店。思い出の喫茶店で小椋が手掛けた数々の名曲誕生秘話に迫る。 1975年、初めて楽曲提供した布施明が歌う「シクラメンのかほり」が大ヒット。当時、小椋は銀行に勤めるエリートサラリーマン。副業としての音楽活動だった。そのためテレビに一切出演せず、正体なき謎のヒットメーカーとして渦中の人となる。勤め先である銀行は、小椋の音楽活動をどう受け止めていたのか?そして「シクラメンのかほり」の意外な制作秘話が明らかに。

1974年発売の名曲「少しは私に愛を下さい」。男女の切ない恋物語を表現したこの曲は、実は銀行に対する恨みを込めたサラリーマンの悲哀の曲だったという。歌詞に込められた数々のエピソードを、野際独自の視点で聞き出す。なぜ小椋の作品は時代を超え愛され続けるのか…。

そんな中、1987年、幸せな家庭を築いていた小椋を、悲劇が襲う。当時14歳の次男・宏司さんが、若年性脳梗塞で倒れ、全身不随の重体。医者からも回復は不可能と宣告されたのだ。 絶望の底にあった小椋だが、ある日、病室のベッドである歌を歌った。すると宏司さんの意識が戻り、一緒に歌いだした。音楽活動をやっていて本当によかったと深く感謝した瞬間だった。奇跡を起こした歌の力とは?

そして人生の応援歌「愛燦燦」。あたかも美空ひばりの人生と重ね合わせたかのような歌詞。しかし、実は美空ひばりのために作った曲ではなかったという。そこに込められたメッセージ、そして「愛燦燦」の制作秘話とは?

デビューして43年、70歳を迎えた小椋は9月に「生前葬コンサート」を開催。創作した2000曲の中から選んだ100曲を、25曲ずつ4日に分けて披露する。 毎日内容が違う異例のコンサート。「歌手人生にケリをつける」という小椋はどんな想いでステージに立つのか? 生前葬コンサートは最後のコンサートになってしまうのか?野際陽子が、独自の目線で小椋佳の知られざる素顔を引き出す。