光のかたち

番組トップページ ル・コルビュジエの建築とは ル・コルビュジエとは

ル・コルビュジエの建築とは

1.フランス東部の村 ロンシャン

日本から遠く離れた、フランス東部の村・ロンシャンの丘に建つ白い建物。
女優・菊川怜は、かねてから憧れだったその場所を訪れる。その白い建物とは、20世紀最高の建築といわれるロンシャンの礼拝堂。1955年にフランス東部の村・ロンシャンに建てられた、ル・コルビュジエ晩年の代表作だ。蟹の甲羅をモチーフとした屋根をはじめとする独特の外観は、その地を訪れた者の心をひきつける。
礼拝が行われる日にしか開かれないエナメルでできた扉を開き中に入ると、大小さまざまな窓から教会内に“光”が溢れだす。静寂な暗闇に降り注ぐ赤、青、黄、緑の光。
光の礼拝堂ともいわれる教会の中で、菊川怜の心は震える。
「なぜこのような建築をつくることができたのだろう…」

ロンシャン

2.初期の建築

ル・コルビュジエの初期建築が、今もラ・ショー・ド・フォンに遺されている。
後のル・コルビュジエ建築とは異なる自然主義の建築である。
初めて両親のために建てた家、ジャンヌレ=ペレ邸もある。
さまざまな人々が住み、去っていったその白い家は現在、両親が住んでいた当時の状態に再現され、一般に公開されている。
ラ・ショー・ド・フォンの町を一望する丘に建つ家だが、母親には不評だったという。
その原因は、寒すぎるから。まだまだル・コルビュジエが修業時代の話である。

コルビュジエの建築物

3.ジュネーブ

レマン湖の西端に面した美しい都市・ジュネーブ。築300年以上の建築が並ぶ石畳の旧市街。
町を歩くと、音楽が聞こえ、チーズフォンデュの匂いがする。道を変えれば、高級時計のブティックが並ぶ。
ジュネーブの街も、ル・コルビュジエと深い関係にあった。
ル・コルビュジエは1927年、ジュネーブの国際連盟本部に、ある計画案を提出した。377の応募の中からしぼられた9つの案に残っていたが、保守派の審査委員たちが結託し、提出された図面が規定の黒インクではなく青焼きのコピーだというこじつけの理由で退けられてしまった。この時、ル・コルビュジエは深く傷ついたという。その後、ル・コルビュジエはクラルテアパートをジュネーブに建築。2階分の高さがある吹き抜けの居間を設計、金属部品や窓枠などを厳格に規格化し、ガラスを多く使うなど、様々な実験を試みている。

現在の住人は言う。
「この場所に住めることは本当に幸福なことだ。ここを買ったり借りたりしている人は 皆、ル・コルビュジエが好きなんだよ。この建物は生きているんだ。」
ル・コルビュジエの親戚、ジャクリーヌさんもこのアパートに今も住んでいる。
「ル・コルビュジエおじさんとは一緒に仕事をしていましたよ。彼は天才でした。 でも、その分周りが見えなくて、性格が悪く見えるときもありましたけどね。」
2007年5月24日のジュネーブ新聞に、「ル・コルビュジエ設計のビル(クラルテアパート)が、ようやく改築のめど」という記事が掲載された。そこには、「ジュネーブとル・コルビュジエの関係は実らない恋のようだ。クラルテ以外の計画はすべて失敗。彼はジュネーブの話が出ると途端に機嫌が悪くなったという。」とも書かれていた。  
ル・コルビュジエとジュネーブの話である。

4.コルゾーの小さな家

小さな家
小さな家
小さな家 窓
小さな家 窓

レマン湖沿いの小さな村、コルゾーに建てられた小さな家がある。ル・コルビュジエが長年にわたって働き続けた母のために建てた家だ。
最小限のスペースで最大限の過ごしやすさを追求。太陽が南にあること、さらに山並みを背景に、湖が南に広がっていること。東から西にかけて見渡せば、湖とそこに映えるアルプスの山々が君臨していること。これらが、この場所でこの家を建築した条件であった。 “勇気と信念の女性”といわれたル・コルビュジエの母は、この家で100歳まで生きた。母はいつも息子ル・コルビュジエに「やるならちゃんとやりなさい」と言ったという。 この小さな家も建築当時、「自然に対する冒涜」として批判されたという。当時は珍しかった真っ白な家を、地元の人々は受け入れることができなかったから。しかし、何を言われても、ル・コルビュジエはこの小さな家を大切に守り続けた。小さな家の長い窓からは、レマン湖の景色が一望できる。「このうえなく美しく水平線上の、見る権利を誰にも譲れないほど比類のない眺め」この美しい眺めを、ル・コルビュジエは愛する母に贈ったのだ。 この家の建築を計画した1923年という年は、「住宅は生活のための機械である」という有名なフレーズが書かれた年でもある。
ル・コルビュジエにとっての“機械”とはどう意味なのだろうか? 菊川は考える。
「ル・コルビュジエにとっての機械とは決してただのモノではなく、人とともにあるモノ。 生きるために必要なモノなのではないだろうか…。」
そして考える。誰かのためにつくるということの意味を。

7.フランス カップ・マルタンの休暇小屋

休暇小屋
休暇小屋

1951年にル・コルビュジエが妻・イヴォンヌのために南フランスに建てた3・66メートル四方の小さな小屋。「建築とは何か?」を問い続けた彼が、最後に到達したのがこの最小限の小さな家だった。  
建築家を志す前に画家を夢見ていたル・コルビュジエは、毎日午前中は絵を描き、午後から建築の仕事をしていた。 
妻・イヴォンヌとは43歳の時に結婚。モナコ出身でファッションモデルだったイヴォンヌは、ル・コルビュジエを精神的に支え続け、夫が自分を見失わず、失敗を乗り越えられるように手助けした。1965年の夏、この小屋から海へと向かったル・コルビュジエは、そのまま帰ることはなかった。
生前の彼の言葉「もっとも大きな喜びはモノをつくる喜びだ」───この喜びを追い続けることができたのは、彼を常に支えた妻、そして母の存在があったからかもしれない。 決して順風満帆とはいえなくても、自分の信念をつらぬき通した芸術家ル・コルビュジエ。その作品を“光”で満たそうとし続けた彼の人生は、常に率直な愛に溢れていた。ル・コルビュジエが最後に見たであろう“光”。

8.旅の終わりに

墓地
墓地

ル・コルビュジエが見た“光”を探す旅を通し、菊川怜は自分と向き合う。
ロンシャンの礼拝堂を見つめる若者。真剣な眼差しの時計職人。笑顔で働く人々。走り回る子供たち。おいしそうにご飯を食べるカップル。朝露にぬれる草。風に揺れる湖。夕焼けをみる人…。スイスで見た様々な光景が浮かぶ。  
生きる限り、人には時間という制限がある。その限りある時間の中で、人は光となるものを探し続ける。  
スイスで見た“光”。ル・コルビュジエが見た“光” その光は、一人の人間が消えた後もなお、生きる者の希望の光となって輝き続けている。生を輝かせる光を求めて、人々は生きていく。