百年名家~築100年の家を訪ねる旅~
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栃木・益子 ~焼物と共に生きる職人町~
今回の『百年名家』は、栃木・益子。
益子町(ましこまち)は栃木県南東部に位置し、益子焼の産地として全国的に有名です。益子焼は江戸時代の末期に茨城県の笠間で修業した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われています。それ以来、陶器造りに適した土に恵まれたこと、また東京に近いことなどから、焼き物の産地として発展しました。現在ではおよそ260軒の窯元が軒を連ねています。毎年春と秋に陶器市が開かれ、全国から多くの人々がこの町を訪れます。そんな益子も東日本大震災では、登り窯や陳列商品が壊れるなど大変な被害が出ました。復興途中にありながらも、陶器造りで賑わう町を、八嶋さんと牧瀬さんが巡ります。
まず2人は江戸時代末期より150年余りの伝統を誇る、益子最大の窯元「つかもと」を訪れました。そこでさっそく益子焼の作業場を拝見。職人さんが轆轤(ろくろ)を回し、熟練の技で器を作り上げていました。簡単な様に見えるのですが、陶芸には集中力と細かな技術が必要。さっそくチャレンジする2人ですが、段取りの一つ一つに悪戦苦闘。さらに「釉掛け」(くすりがけ)と呼ばれる作業を拝見。釉掛けとは素焼きした器に釉(うわぐすり)を掛けて様々な色にしたり、筆を使って様々な模様を描いたりする作業のこと。八嶋さんも挑戦しますが…陶芸の奥深さを感じる結果となりました。
作業場を後にした2人は「つかもと美術記念館」を訪れました。ここは明治20年ごろに建築された豪壮な庄屋作りの2階建ての建物で、平成に入ってからも塚本家の主屋として使われていました。以前は半農半陶(はんのうはんとう)だったことから、2階は蚕部屋として利用されていました。座敷の書院にある組子は、投網を模しており、非常に珍しい造りになっています。つかもとは人材育成にも力を注ぎ、多くの陶芸家を輩出しています。そればかりか町の有志と芸術家の支援にも乗り出し、かつては棟方志功も世話しました。そのため棟方志功の作品を多く所蔵しています。また、つかもとで造られた日用品なども飾られており、その中に誰もが知っている釜飯の器を発見。実はこれ、横川の峠の釜めしで使われている器で、現在でも1日に1万個の容器を生産しているそうです。
「つかもと」で最後に訪れたのは「平成館」。平成館は元々、奥日光にあった奥日光南間(なんま)ホテルを昭和48年に移築し、宿として利用していました。なんとこの建物、戦争末期の昭和20年、学習院初等科に在学していた今上天皇が日光の田母沢御用邸から、新たに疎開した場所でもあります。玉音放送を聞いたのもここのお部屋でした。半年にも及ぶ疎開生活の中で記した、背比べの跡が柱に残っています。庶民的な一面に感銘を受ける2人でした。
益子は焼物で有名な町ですが、それ以前から木綿で栄えた地域でもあります。「日下田(ひげた)藍染工房」 は江戸時代の寛政年間から200年以上続いている、木綿を藍で染める紺屋(こうや)、藍染屋さんです。江戸時代中期から明治時代初期にかけて、紺屋は日本全国の至る所にありました。益子の町にも6軒の紺屋がありましたが、今では日下田藍染工房1軒だけになってしまいました。建物は創業時のままの茅葺き屋根。大戸を入ると左側は藍染の作業場になっています。そこには、72個の藍染め用の甕(かめ)が整然と並び、その内70個が今も現役で、2年前の震災でもびくともしなかったそうです。藍染は甕で発酵させた藍につけ、その後空気に触れさせることによって染められています。そのため甕の脇に「火床」と称する穴を設け、おが屑やもみ殻を燃やして、藍の発酵に適した温度を保っています。火床からの煙が漂う甕場。そこに外からの日差しが差しこんだ光景はなんとも幻想的な世界。作業工程を拝見させていただいた2人。昔ながらの手法に魅せられました。
旅の最後に、益子で古くから陶器造りに携わり、陶祖(とうそ)とも称されている家を訪れました。室町時代から続くとされる古い家柄で、江戸・明治期に何度か改修を経てはいるものの、そのまま使われている古い部材も多くあります。また土間の左側は厩(うまや)だったそうで、大黒柱には馬や牛が付けたと思われる跡が残っていました。天井は巧みに組み合わされた「2重梁」。上り框は半間の奥行きがある立派なもの。広間にある窓側の古い柱には、格子窓の痕跡が見られました。益子における古い民家の間取りを推測することが出来る貴重な資料。先祖から引き継いだ歴史的な建物を生活の中で守り続けている、そう感じた2人でした。
今回は、伝統工芸とともに、今も変わらぬ生活を続ける人々に出会えた旅でした。