ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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5月27日(土)
ゲスト:山田邦子(タレント)

ゲスト×インタビュアー
山田邦子(タレント)×吉永みち子(作家)

1960年、東京荒川区生まれ。厳格な父のもと、中学から短大まで、お嬢様学校といわれる女子校に通う。成績はオール5。小学校から短大まで、学級委員を務めた。学校では、ファンクラブができるほどの人気者。その原点となったのは、幼いころに抱えていたあるコンプレックスが影響したという。それは一体何だったのか?
中学時代の夢は、落語家。短大に進むと、早稲田大学の寄席演芸研究会に入り、素人参加番組に片っ端から応募する。人気番組「笑ってる場合ですよ!」の勝ち抜きコーナーでチャンピオンとなり、アマチュアでありながらテレビ業界では知られた存在に。おなじみのバスガイドのネタは、学生時代に作ったものだという。
1981年にデビューし、本格的に芸能活動を始めた山田は、「オレたちひょうきん族」のレギュラーとして活躍。「ひょうきん絵描き歌」のコーナーで一気にブレークした。その後も、コントやモノマネでも才能を遺憾なく発揮していく。そして1989年、自身の名前がついた冠番組を持つまでに。さらに、NHKの好感度タレントランキングでは8年連続1位に輝いた。当時の月収は1億円を超えたという。
山田に転機が訪れたのは10年前。46歳の時に乳がんが発覚したのだ。3つの腫瘍摘出のため、2度の手術を余儀なくされ、放射線治療やホルモン剤治療と予断を許さなかった。それまで大病を患ったことなどなかった山田。しかし、“がん友”と呼ばれるがん患者仲間との交流を機に、人生観が大きく変わったという。手術から1年後の2008年、「がんに立ち向かう人たち、家族を勇気づけたい」「がんの早期発見治療の大切さを伝えたい」その思いを実現するため、著名人が参加する「スター混成合唱団」を自ら結成。参加者はボランティアでノーギャラ。マネージャーも同行しない。団長の山田は参加者集めから、移動手段、宿泊施設の予約、スケジュール作成まで、事務作業を一手に引き受けている。活動にかける山田の思いとは?
今年1月には、プロレス大会をプロデュースした。実は、山田は年間70試合以上観戦するという筋金入りのプロレスファン。乳がんを患って10年がたち、快気祝いとしてプロレス団体「NOAH」の協力で、大会を開催したのだという。
また、プロレスのほか取り組んでいるのが、農業。新潟県の畑で大好きなスイカの栽培をしている。釣りはスポーツ新聞に連載を持つほどの腕前だ。さらに、三味線、リカちゃん人形の収集…と多忙な日々を送る。現在56歳、再発の恐怖と闘いながら、人生を謳歌(おうか)する山田邦子。その素顔に迫る!

5月28日(日)
ゲスト:稲垣潤一(歌手)

ゲスト×インタビュアー
稲垣潤一(歌手)×森下康樹(編集者)

インタビューの舞台は、稲垣が古くからオーナーと親交があるという、東京・新宿にある小さなライブハウス。インタビュアーは、編集者・森下康樹が務める。稲垣よりちょうど10歳下の森下は、18歳で上京した時にテレビで歌う姿に鮮烈な印象を受け、以来、ずっとファンだという。そんな森下が引き出す、稲垣の素顔とは?
1953年、宮城県生まれ。榴ヶ岡駅にある商店街で洋品店を営んでいた両親は、大の洋楽好き。幼少のころから家のラジオで音楽を聞いて育った稲垣は、中学1年生の時、友人たちとバンドを結成、ドラムを担当することになる。初めて人前で演奏した時から、すでにドラムをたたきながら歌うというスタイルだった。「なぜ、ギターやベースではなく、ドラムを選んだのか?」「ドラムをたたきながら歌うのは、大変では?」さまざまな質問をぶつける森下に対し、稲垣は実際にドラムをたたきながら、現在のスタイルがどのように誕生したのか、を語っていく。
高校でもバンド三昧の日々を送り、卒業後はいったん就職するも、わずか1日で辞め、クラブやキャバレーなどで演奏する“ハコバン”生活に入る。米軍キャンプやビアガーデン、ディスコ、さまざまな場所で演奏するが、客の目的は酒やホステスであり、バンドはあくまでBGM。金銭的な待遇も悪く、多くのバンド仲間たちが“ハコバン”生活から去っていく中、稲垣はプロのバンド演奏者として約9年間活動を続けた。その甘い歌声は話題となり、「仙台に稲垣あり」といわれるまでに。そしてついには東京からスカウトが訪れ、1982年「雨のリグレット」で世に出たのは、28歳の時。プロになった稲垣は、歌や音楽と向き合う姿勢が大きく変わったという。その心境の変化とは? その後、「夏のクラクション」「ロングバージョン」など次々とヒットを飛ばし、いつしか大人向けのロック、いわゆるAOR(Adult-oriented Rock)を代表するミュージシャンと呼ばれるように。
デビュー3曲目の「ドラマティック・レイン」がヒットし、一躍スターに。そしてデビュー10年目の1992年、今も歌い継がれるクリスマス曲の定番「クリスマスキャロルの頃には」が誕生、ミリオンヒットとなった。作詞は、秋元康。この曲がヒットした要因の一つに、秋元の作詞の妙があるという。果たして大ヒットの理由とは? 貴重なライブ映像をみながら、その秘密をひもといていく。
デビュー35周年、さまざまな記念ライブやコンサートが開かれる中、プライベートでは中学時代に友人たちと組んだバンドを再び結成。2008年からは、中森明菜、太田裕美、柴咲コウなど、さまざまな女性ボーカルとデュエットしたカバーアルバム「男と女」をシリーズで発売。デュエットという新ジャンルを開拓し、最近では人気アイドルNMB48の山本彩との “40歳差”デュエットも大きな注目を集めた。60代にして今なお挑戦し続けるミュージシャン稲垣潤一は、これまでどのような思いで音楽と向き合ってきたのか? 「音を楽しんでこそ、音楽」と語る稲垣の足跡を、ヒット曲と共にたどる!