ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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5月20日(土)
ゲスト:寺島進(俳優)

ゲスト×インタビュアー
寺島進(俳優)×ヤン ヨンヒ(映画監督)

「たけしさんがいなかったら、今のオレはいない…」20代半ばになっても無名だった寺島の才能は、北野武監督に見出されたといっても過言ではない。その後、“北野映画”の常連となり、多くの作品で、キラリと光る存在感を見せてきた。昨年は、NHKの大河ドラマ「真田丸」で出浦昌相役を熱演、さらにテレビ朝日系列「動物戦隊ジュウオウジャー」ではヒーロー戦隊役を演じるなど、ますます演技の幅広を広げている。芸歴33年、子どもから大人まで、幅広く愛される“名バイプレイヤー”の知られざる役者人生とは? 
1963年、男ばかり3人兄弟の次男坊として、東京下町・深川で生まれた。実家は、祖父の代から続く老舗の畳屋。このころは、まだ将来役者になるとは、夢にも思っていなかったという。寺島少年の、当時の夢とは?
1980年代、畳職人の仕事が激減し、父から「好きなことをやれ」と告げられた寺島は、高校を卒業すると知人の勧めで、俳優・三船敏郎が設立した俳優養成学校に入学する。そこで出会ったのが“殺陣”。その奥深さと面白さにすっかり魅了された寺島は、養成学校卒業後、殺陣師集団「剣友会」に所属する。アクションスタントから斬られ役まで、何でもこなす大部屋俳優としての道を歩み始めた。
そんな中、生活するのがやっとだった当時の寺島を、役者へと向かわせるある人物との出会いが訪れる。その人とは、俳優・松田優作。ある劇団の稽古場での出会いが縁となり、22歳の時、松田優作初の監督作品「ア・ホーマンス」で映画デビュー。せりふひとつない、名無しのチンピラ役にも関わらず、映画の楽しさに夢中になったという。しかし、その3年後、松田ががんで他界。続けざまに、自身の父親も亡くした。
失意の寺島に、再びかけがえのない出会いが訪れる。北野武監督のデビュー作「その男、凶暴につき」のオーディションに合格したのだ。北野監督との出会いが、寺島の役者人生の歯車をゆっくりと動かし始めた。
1991年には、北野映画3作品目「あの夏、いちばん静かな海。」に出演。わずか数分の出演にもかかわらず、この時北野監督から“役者としての希望”となる言葉を掛けられる。その言葉とともに、当時の思いを振り返る。また、北野監督にほれ込んだ寺島が、アメリカまでアポなしで、監督を訪ねたというエピソードも。その時の北野監督の反応とは? 
これまで、自らの身の上を語る番組にはほとんど出演をしてこなかったという寺島。インタビューの舞台は、東京・錦糸町にある寺島行きつけの高級キャバクラ。インタビュアーの映画監督・ヤン ヨンヒと酒を交わしながら、リラックスした雰囲気の中、寺島が自身の半生を語る。芝居への思い、6歳の娘を持つ父親としての顔、そして今後の人生について…その知られざる半生が赤裸々に語られる!

5月21日(日)
ゲスト:木下唯志(木下サーカス社長)

ゲスト×インタビュアー
木下唯志(木下サーカス社長)×吉永みち子(作家)

1902年の創立から、今年115年を迎えた木下サーカスの社長・木下唯志。世界に300頭しかいないホワイトライオンの世界猛獣ショーやかわいらしいゾウやシマウマのショー、さらに地上13mの高さで繰り広げられる空中ブランコショー、幻想的な踊りや日本古典芸など…多彩なショーの数々は、子どもから大人にまで大人気。木下サーカスは、今や世界3大サーカスに数えられるほどに成長した。日本のサーカスは、全盛期には30ほどあったが、時代の流れとともにその多くが廃業に追い込まれていく。木下サーカスも、その例外ではなかった。木下が4代目社長に就任した1990年には、10億円に近い負債を抱えていたのだ。一度は消えかかったサーカスの“火”を、再び興隆に導いた木下の手腕とは? 年間120万人もの観客動員を誇る、木下大サーカスの魅力に迫る。
1950年、岡山県生まれ。チンパンジーやゾウなどの動物たちに囲まれて幼少時代を過ごした。大学卒業後、都市銀行に内定が決まっていたが、あることがきっかけとなり木下サーカスに入社。木下家の御曹司とはいえ、朝は4時に起きて動物のふんの掃除。さらに道具の出し入れなど、下っ端の仕事を経験し、次第に仕事を覚えていく。その後、サーカスの花形・空中ブランコでデビューを飾った。
空中ブランコで人気をはくし3年目、まさかのアクシデントが木下を襲う。公演中に高所から落下し、首の頸椎(けいつい)を損傷してしまったのだ。さらに、このけががきっかけで肺炎にかかり、3年間の闘病生活を強いられた。そんな危機から救ってくれたのが、1カ月間の断食を行う断食道場だった。木下は、ここで健康よりも精神を学んだという。
1981年には、営業職として仕事復帰。すでに兄が3代目社長を継いでいたため、兄弟で木下サーカスの経営を行なうことに。しかし、時代の流れとともに客足が遠のき、公演するごとに負債が増えていった。そして兄が倒れ、4代目社長の座に木下が就くことになる。就任時、10億円近い負債を抱えていたため、周囲からは木下サーカスをたたむことを勧められ、辞めていくスタッフもいた。しかし、反対を押し切って公演を続けた。逆境の中、公演を行った心境とは?
その後、10億の負債を10年かけて返済。その手腕の裏には、「最高の場所で公演し、根気よく営業を行い、ショーを進化させる」という“1場所、2根、3ネタ”という父の教えがあった。さらに、節約を徹底し、舞台に上がる団員も接客やトイレ掃除までを行なっている。年間4~5カ所、全国を回って公演を行うが、団員や音響照明のスタッフも全員テントの裏に設置されたコンテナで生活。テントの設置や解体、スタッフ全員で行うという。“社員は家族”と語る木下の、人の気持ちを動かす方法とは?
今回は、進化し続ける木下大サーカスのショーも特別に公開! ホワイトライオンの猛獣ショー、目隠しして飛ぶ空中ブランコ、人間業を超えたフラフープやジャグリング、決死の空中大車輪など、興奮と感動に満ちた夢のショーは必見!
サーカスの未来、それはサーカス文化を芸術にするということ。その言葉の奥には、サーカスを絶やしたくない、という木下の熱い思いがあった。