旅の足跡

村から都市に急速に変貌するブータンの首都 「ティンプー」

唯一の空港の街・パロに到着し、まず石川と案内役・ライターの田中敏恵が向かったのは、ブータンの首都・ティンプー。パロからティンプーまでは、約50キロ。高速などはなく、国全体が山間のブータンは、直線の道路がほとんどないため移動には時間がかかる。1時間以上をかけ首都・ティンプーに到着した。
ティンプーは、首都というだけあって、今急速に近代化が進んでいる。車も人も多く、街も大きい。若者は、日本と変わらないファッションに身を包み、ハンバーガーをほおばりながら、携帯でメールを楽しんでいる。素朴な町並みを期待していた石川は、少々拍子抜けしてしまう。半年前に訪れた田中も、その近代化のスピードには、困惑していた。
とはいえティンプーは、ブータンのあらゆる見所が凝縮された街でもある。大きいとはいえ、車で10分も走れば素朴な田園風景が広がり、世界のどの街とも違う独特のオーラはいまだ失われていない。ティンプーは、現代と中世の間で揺れ動く国・ブータンの今を知ることができる。旅行者には、充実した設備のホテルやレストランも多く、ブータンの入門には適した街といえる。
そのティンプーで、石川は、この国の国技である弓の大会を見学し、この国一番の選手と出会った。そして、伝統的ブータン音楽の大御所とも出会い、その演奏を堪能。またブータンの仏教と密接な関係がある占星術の学校も訪ねた。
そして民主化をスタートしたこの国のトップである首相ジグメ・ティンレイとも会うことになる。この人物こそ、国王のGNHという言葉を世界に広めた人物。そしてこれからのブータンの舵取りを行うブータンのリーダーである。石川はその首相に問う、彼の考える国民総幸福量とはなにか…?
村から都市に急速に変貌するブータンの首都 「ティンプー」


人と自然の共存の地 「ポプジカ」

ティンプーから車で約5時間、次に向かった街・ポプジカ。ここには、チベット仏教の宗派の一つニンマ派の西ブータン最大の寺院ガンテ・ゴンパがある。ティンプーとは、まったく違う自然と共存する街だ。電気もなく、最高級リゾート“アマン”も自家発電。その他のホテルでは、電気がない。基本的に夜はロウソクのみ、お湯も出ない。まさにイメージするブータンの暮らしがここにはある。
電気が引かれていないのは、ここで暮らす人々の総意でもあった。ポプジカは、ヒマラヤを越えてやってくる天然記念物・オグロヅルの飛来地として知られ、電線が引かれると飛来できなくなるため、村人たちは、電気を引くことをやめたという。石川はそのポプジカで、ガンテ・ゴンパと農家を訪ねる。ブータンは、国民の8割近くが農民であり、自給自足が確立している農村部では、貧困とは無縁だ。日の出とともに目を覚まし、夜はランプの明かりで酒を酌み交わし眠りにつく。自然と一体化して暮らすということの本当の意味を教えてくれるのがブータンの農村なのだ。ブータン式露天風呂“ドツォ”で汗を流し、農家の暮らしに触れた石川は「物がないのに豊かさを感じる」と語った。
人と自然の共存の地 「ポプジカ」


4つの谷に囲まれたブータンの聖地 「ブムタン」

「ブータンの観光名所は?」とたずねられれば、広大な自然、そして寺院をはじめとする仏教にまつわる建物…が挙げられる。ブムタンは、チュメ、チョコル、タン、ウラの4つの谷からなるブータンの宗教的中心地。今回訪れた中でもっとも東に位置し、車でポプジカから6時間。空港の街へもどるには、10時間以上もかかる。今回でブータン訪問3回目となる田中には、毎回会いたくても会えない人物がいた。その人の名は、ケンツェ・ヤンスィー・リンポチェ。この人物、ニンマ派のもっとも位の高い高僧で現在16歳。その人物がこのブムタンにいるという。
我々のガイドを勤めてくれたタシィさんは、その前世が名付け親という縁で、あらゆる手を尽くし、ついにお目通りがかなうことになった。はたして、その人物とはいかなる人物なのか…? そして、転生するという考え、つまり輪廻転生というチベット仏教の教えは、ブータンの幸福論と大きなかかわりがあることを石川は知ることになる。
4つの谷に囲まれたブータンの聖地 「ブムタン」


「冬の首都」として栄えたブータンの古都 「プナカ」

プナカは標高1350mと、ティンプーに比べ1000m以上も低く、バナナが生い茂る亜熱帯気候の街。1955年にティンプーが通年首都になるまでの300年あまり、プナカはブータンの“冬の首都”であり、初代国王の載冠式がおこなわれたのもプナカである。
ブータンの街には17世紀初頭にブータンを建国したンガワン・ナムゲルが各地に建設した“ゾン”と呼ばれる城塞があり、ブータンの建築様式の代表的なものである。プナカ・ゾンは全国のゾンの中でも歴史的にまた信仰的にもっとも重要なゾンであり、美しい内部を誇っている。
ブータンの店という店、家という家、レストラン、ホテル…その壁や柱には、必ずといっていいほど国王の写真が飾られている。民主化をスタートしたばかりのブータンにとって、いまだ国王の存在は絶大だ。90年代後半、国王自ら国王の親政の政治形態からの脱却を目指し、今年、国民の総選挙を機会に譲位したが、多くの国民から反対意見が相次いだ。GNHというスローガンをかかげ、なにより国民の幸せを第一に考えて生きた国王だけに、国民からはいまだ絶大な支持を得ている。石川は、この国の国王の歴史を学び、ブータンの幸せの仕組みを学んだ。
「冬の首都」として栄えたブータンの古都 「プナカ」


現代社会に向かって開かれたブータンの扉「パロ」

旅の最後に訪れたパロは、唯一の国際空港の所在地であり、観光はもちろん、ティンプー以外ではもっと開発が進んでいる。ガイドのタシィさんは、見事な棚田が広がる丘の上に建てられた“チョルデン” を、ぜひ見て欲しいという。
“チョルデン”とは、“西岡チョルデン”という日本人の名前からとった信仰の証として建てられた仏塔のこと。日本が戦後から脱却した1964年、最初の国際援助プロジェクトの一員としてやってきたのが西岡京治氏。任期を終えてもブータン側の要請でこの地に残り、1992年に亡くなるまでの28年間、近代的稲作技術の導入や、野菜栽培、ジャガイモやリンゴなどの輸出換金作物振興など、ブータンの農業近代化に大きく貢献した人物だ。1980年には国王から貴族、政府高官などに贈られる最高の爵位“ダショー”の称号を正式に贈られ、多くのブータン人から尊敬されている。つまり、世界有数の幸せの国ブータンの一端を日本人が築いていたのである。そのせいか、ブータンの田園風景は、昔の日本を思わせる。
石川は、ブータンの風景を眺めながら、自分の幼少の頃を思い出していた。ブータンには、日本との共通点が多くある。日本も元来同じ農耕民族であり、国民の多くは仏教を信仰している。“ゴ”と呼ばれる民族衣装は日本の着物と似ているし、田舎の町並みは、江戸時代の宿場町を思わせる。漆塗りの漆器もしかり、そしてなにより顔が似ている。
秘境と呼ばれるブータンは、実はほんの少し前の日本だったのかもしれない。石川は、「なぜブータンが幸せの国なのか? そして幸せとは何なのか?」ブータンを12日間旅してその意味がわかりかけてきた…。
現代社会に向かって開かれたブータンの扉「パロ」