旅の足跡

未来の上海 現在の上海 過去の上海

未来の上海

未来の上海
 上海の急速な発展の背景には、90年に構想された開発計画がある。国家戦略に基く20年がかりの大プロジェクトで、中国大陸を貫く長江流域の内陸部と連携を図った壮大な視野を持つその名も「ドラゴンプロジェクト」。長江を巨大な龍とみなし、上海はその龍の頭を担う。そのドラゴンプロジェクト完結の目玉として、来年5月、上海万国博覧会が開催される。北京でのオリンピックに続き、上海での万博。東京オリンピック、大阪万博が開催された高度経済成長期の日本のような活気を、今、この街はもっている。まず石川次郎は、その上海万博の全貌を知るため、日本と上海の架け橋となる仕事を数多くこなす徐さんと出会い、特別に建設現場に入ることを許された。まず驚いたのは、 5.28k㎡というその大きさ。あの広大な大阪万博の4倍という敷地面積。今、上海は中国中の建築業者が集まっていると思えるほど、会場だけでなく街のあちこちで万博に向けての建設やお色直しが急ピッチで進んでいる。しかし、徐さんは、「万博が〔龍の頭〕の完結ではない。」という。
万博のさらに先にあるプロジェクトこそが、〔龍の頭〕の完結なのだと。そのプロジェクトとは、上海市街から東南方向に約20㎞辺りに位置する南匯区。数年前まで農業地帯だったが、今、近未来都市へと生まれ変わりつつある。国家プロジェクトとして、建設を開始した「臨海新城」である。広大な万博会場がすっぽりはいる5.6平方キロメートルの人工湖を中心に環状線状に、金融・貿易・ビジネス・住宅・娯楽施設などあらゆる施設が集まる中国の超近代都市。石川は疑問に思った「なぜ、こんな大規模な街が必要なのか?」その答えは、この街の先にある。この街から海へ32、5キロに伸びる中国一の海上の大橋「東海大橋」、そしてその先には、国際ハブ港湾「新上海港」があった。現在は3分の一が完成し、すでに稼動しているがすべて完成すれば世界有数の巨大ハブ港となり、中国にもたらす国益は計り知れない。国益となれば、わずかの期間で一気に新しいものを作り上げる 中国の大国としての底知れぬパワーを、石川は実感した。

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現在の上海

現在の上海
証大集団 総裁 載志康

 国家レベルの開発の目の当たりにした石川だったが、民間でも次々と新時代を築くエリートが生まれている。アジアのビジネスの中心地として発展する浦東地区。その街作りに多大な貢献をしているのが、不動産開発で知られる証大集団だ。高層住宅群のみならず、「大拇指広場」という広大なモール、や高級ビラ「九間堂」など。この証大集団総裁は44歳の載志康。上海では誰でもが知る著名な実業家だ。日本が誇る建築家、磯崎新氏と懇意である彼は、現在磯崎氏設計の巨大なカルチャーコンプレックス「ヒマラヤセンター」を建築中。今回はその磯崎氏も運よく上海に滞在中で、石川次郎、磯崎新、そして載志康の3人で上海について語り合った。

 上海には黄浦江という川が街を二つに割って南北に流れ、このビルは新しい街作りが進行する浦東地区にある。川の東がどんどん変わっていく一方で、旧市街の浦西でもいろいろなことが起こっていた。石川次郎の目に留まったのは、この浦西地区を中心に世界中の集まる若い外国人達。 日本人はもとより、韓国、ヨーロッパ各国・・・・そして中国人全土からも上海へ夢を追い求めてやってくる。彼らは「お金がなくてもアイデアが面白ければ、この街はチャンスをくれる」と口々に言う。上海在住15年のヒキタミワさんとともに、石川次郎は浦西上海の街に繰り出した。
上海アートシーンの基礎を作ったスイス人ロレンツ・ヘルブリング。
ラクダをモチーフにしたペインティンで今や世界中のアートシーンで注目を集めている画家、周鉄海。
若者が集まる人気スポット「田子坊」で最初にショップをオープンしたフランス人、キャロリーヌ。
レトロな茶館「宋坊」のオーナー、フランス人のフローレンス・サムソン。
イタリアンレストラン「カッシーナ」を経営する日本人、小池田和子。
イタリア人デザイナーのモニカ。湖南省からやってきたジャズシンガー・ココ。
オーガニック野菜の農場を経営する25歳の上海セレブ・デニスなど、世界中からやってきた「新上海」、や「この街で生まれ育った「上海人」と会い、それぞれの上海を語ってもらった。

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過去の上海

過去の上海

 上海は、特に日本人にとって、中国の、いやアジアのどの都市とも違う、特別な意味を持っている。
上海は、我々の父親の時代、または祖父の個人史にも繋がる、今も生き続ける歴史の街。
日本は戦前、いい事も悪いことも含めて、上海とは深い関係を有しかつて上海には、10万人もの日本人が住んでいだ。石川次郎は、そんな “かつての上海”を知る楊世奇さんと出会った。
楊さんは今年50歳。上海に生まれ育った楊さんは激動の上海を見てきた人物。そんな楊さんの案内のもと開発が進む中、街の片隅に残る“かつての上海”の面影を追った。上海は少しの興味と知識があれば、超近代都市の影に隠れた、生生とした過去の歴史を語り始める。上海はそうした歴史の現場を、今も数多く残す街。中国の工業化は、上海の繊維産業から始まった。しかもその約半分は日系企業が担った。そんなかつての姿を今も残す、日本の紡績工場の社員寮だったところが丸々一区画きれいに残されている場所がある。「紡三小区」というかつて日本人が住んでいた地区で、ひとつの小区の建物が丸々きれいに残っているのは、上海でもここだけ。外観は当時流行っていた30年代欧風建築、内装は和風建築で、今でも当時の内装を残したまま住んでいる家が1軒だけあった。そこは、今年100歳を迎える一人暮らしの老人の家。かつてここで生まれた労働者階級と労働者意識は、やがて共産党を生み、社会改革から革命へと突き進んだ。そんな中国近代史を残すのが、中国プロバガンダポスターアートセンター。ここは、1940年代から1970年代までの共産党の本物のプロバガンダポスターを展示しているおそらく唯一無二のギャラリー。そこには、今の上海からは想像ができないほどリアルな社会主義を突き進む中国の姿が、生々しく見て取れる。しかし考えてみればそれはわずか数十年前のこと。そして、ここを案内してくれた楊さん自身も経験してきた中国なのだ。

 旅の最後に、楊さんが上海美術館へと案内してくれた。そこには、石川が数年前見たかつて中国の最高権力者、鄧小平が現在の上海を船の上から眺めているという絵。現在は倉庫にしまってあったものを特別に楊さんの計らいで再び目にすることができた。石川次郎がはじめて上海を訪れた92年当時、近未来的な超高層ビルときらびやかな光に照らされる浦東は、真っ暗だった。あっという間に別の世界を作り上げる中国のパワー、そして失われゆくものを残そうとする人達と出会い、石川次郎は上海人、そして中国人の本質を知った。

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