坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行
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「悲運の城・会津若松城」

白虎隊が守りし侍魂

地元では鶴ケ城、地元以外では若松城、会津若松城と呼ばれることが多い東北屈指の堅固な城。葦名、伊達、蒲生、上杉、加藤、保科、松平など数多くの戦国武将が治め、幕末の戊辰戦争では激戦の舞台となりました。新政府軍との戦いの中では1ケ月もの籠城戦を行い堅固ぶりを見せつけました。城内で一番高い石垣は20m、長さは120mにも及びます。白虎隊や新選組など多くの英傑たちが活躍し、命を落としていった悲劇でも知られます。
かつては、黒川城と呼ばれましたが、1590年に秀吉の怒りに触れた伊達政宗に代わって入城した蒲生氏郷は大坂城を手本に縄張りをし、5層7重の天守をつくりました。城下町を整備し現在に至る会津若松の基礎を築きました。その後、伊予から移ってきた加藤氏が、空堀を水堀に変えたり、地震で壊れた七重の天守を5重にするなどの大規模な改修が行ない、東北屈指の名城をなりました。
会津若松城の歴史を語る上で欠かすことができないのが、幕末の戊辰戦争です。会津藩は籠城戦を行い、1ケ月に渡りすさまじい戦闘が行われました。
その中で忘れられないのが、白虎隊の存在です。会津戦争にあたり、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。純粋に故郷である会津を守るために戦い、そして自刃していった少年たちの悲劇は今も語り継がれています。
天守は、戊辰戦争時の攻撃でダメージを受け、明治の初めに取り壊されました。1965年に現在の5重の天守が再建され、去年3月大規模な改修に入りましたが、今年3月、1年間の修復工事を終えリニューアルオープンします。実は、幕末の会津若松城は珍しい赤瓦だったといいます。その幕末の姿が悠久の時を超えて甦ります。その姿を存分にお伝えします。