1862年、グスタフ・クリムトはハプスブルク家のもと繁栄を続けてきた帝都ウィーンの郊外に生まれました。金細工職人の家に生まれた彼は、はじめ卓越したデッサン力のもと、装飾の世界で活躍し始めます。ウィーンの環状大通り、リンク・シュトラーセの建設に始まった公的建築物の建設ラッシュのなか、それらの装飾壁画を手がけ、好評を博したクリムトとその家族は、順風満帆のように見えました。
しかし、もはやハプスブルク家の力も衰え、劇的な変革期を迎えつつある19世紀末のウィーンにおいて、クリムトもまた保守的な装飾画を描き続けることに甘んじてはいられませんでした。
共に装飾の仕事を請け負っていた父と弟が相次いでこの世を去り、装飾画職人のグループは解散。それでもクリムトは、請け負っていたウィーン大学講堂の天井画等を受注します。そして、クリムトが作り上げたものは、大学教授も市民も芸術家すらも仰天する斬新な主題と様式のものでした。天井画は、激しい論争に発展。その非難と無理解はクリムトを苦しめます。
クリムトはそれまで所属していた美術組合を脱退。より自由な作品発表の場をもとめ「分離派」の初代会長となります。そうしてクリムトは黄金時代と呼ばれる、金を使用した装飾性豊かな独自の様式を確立。次々と官能的な女性の美しさを描きあげます。
一方、毎年夏をすごしていたアッター湖畔では、クリムトらしい装飾性豊かな独特の風景画を数多く残しています。
様々な芸術から影響を受けたクリムトでしたが、17歳のエゴン・シーレの画風にも強い衝撃を受けます。その正と死、過激な表現。しかし、ウィーン画壇の「恐るべき子供」となったシーレをクリムトは庇護し続けました。
番組ではウィーンの風景とともに、妖艶かつきらびやかで美しい、「黄金の画家・クリムト」の作品とともに、彼の生涯にせまります。