にっぽん今昔道 江原啓之のちょっと道草
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青森県・「生きる道を愛す心・青森」




今回は、昨年12月、新青森駅に東北新幹線が開通した「青森」で道草です。
東京駅から新青森駅までがぐっと近くなり、注目の観光名所も増えています。

さっそく、新青森駅からほど近い場所にある日本最大級の縄文集落跡「三内丸山遺跡」から道草をスタート。「三内丸山遺跡」は、古の人々の知恵の深さを体感できる場所。復元された現在のビル4階建て分もあるという、大型掘立柱建物の横に立つとどのように作ったのか、想像心をかきたてられます。江原もそのスケールの大きさに驚き!

青森に来たからには、どうしても行ってみたい場所があるという江原。向かったのは、津軽三味線が聞ける郷土料理のお店「甚太古」。

こちらには、昭和から明治にかけて津軽三味線ブームの礎を築いたといわれている偉人、故・高橋竹山のお弟子さんがいらっしゃいます。それが西川竹苑こと西川洋子さん。普段は津軽弁で昔の話を語りながら、郷土料理を出し、そして津軽三味線を演奏してくれます。

さっそく、三味線を実際に弾かせてもらうことになった江原。初めて音を出した人にしては、かなり筋があると言われて大喜び。

西川さんが師匠の高橋竹山から聞いた話を教えてくれました。竹山がまだ無名の時代は、一般家庭を訪ねて歩いては玄関先で音楽を奏でて、お金の代わりにほんのちょっとの米をもらって稼いでいたそうです。津軽三味線は"生きるための芸"として始まったのだそうです。

今でこそ"津軽三味線"と聞けば、音楽をイメージできるほど浸透していますが、西川さんは、若い演奏者たちが頑張って広めてくれているお陰だと言います。若い人たちが津軽三味線の歴史を変えてくれたことが、何より嬉しいそうです。
女将の西川さんは、16歳で竹山に弟子入り。ある時、竹山に「他の人と違う演奏方法を考えろ」と教えられ、西川さんが考えた音を取り入れて演奏したところ、竹山の好みに合わず、認めてもらえなかったんだそうです。それでも、自分がいいと思ったことは曲げることのできない性格だった西川さん。師匠の言うことをきかずに演奏し続け、師匠を根負けさせたと言います。結果、竹山に西川さんオリジナルの曲と認めてもらったそうです。

以後、三味線だけでなく、人間としての考え方や生き方など色んな事を教えてもらったと言います。当時女性の津軽三味線演奏者は珍しく、変わり者と言われたり気が強かったことで悩んでいた時も、甘える先は竹山だったそうです。

今でも感謝の気持ちを込めて、竹山が使っていた三味線が飾られた場所で演奏する日々。江原は、亡き竹山が、今だに西川さんを見守っていると感じたようでした。

思い出の曲を演奏しながら、涙がこぼれる西川さん。江原も心温まる道草になりました。