ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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7月15日(土)
ゲスト:佐久間良子(女優)

ゲスト×インタビュアー
佐久間良子(女優)×宮嶋泰子(テレビ朝日スポーツコメンテーター)

1939年、東京・練馬の裕福な家庭に生まれる。父は地元でも有数の大地主の次男。大邸宅で何不自由ない幼少期を送った。今回インタビューが行なわれたのは、母校である川村中学・高等学校の図書館。卒業アルバムには、セーラー服姿で微笑む佐久間の写真が残されていた。高校時代は、その美貌から校内の“マドンナ”的存在で、美しい少女がいるといううわさは東映の重役にまで広がり、映画界にスカウトされたという。
1957年、18歳の時に東映第4期ニューフェイスとして入社。清純派女優として多くの映画に出演した。1963年公開の映画「人生劇場 飛車角」では、主人公と駆け落ちする遊女の役を演じ、清純派の殻を打ち破った。1960年代後半には、テレビ・舞台へと活躍の場を広げる。テレビドラマでの共演をきっかけに出会ったのが、俳優の平幹二朗。共演を重ねるうちに交際へと発展し、1970年に結婚、4年後には双子の男女に恵まれた。子育てをしながら、1981年にはNHK大河ドラマ「おんな太閤記」で豊臣秀吉の妻・ねねを演じる。女優の単独主演は、大河ドラマでは初めてのこと。平均視聴率も30%を超え、ドラマは大成功を収めた。
一方で結婚生活はすれ違いが続いた。結婚から14年、夫婦で行った離婚会見で、夫の平幹二朗はこう語っている。「人生の共演は失敗したが、また舞台か何かで共演する時があれば、これも人生楽しいんじゃないか…」。
その言葉は、17年の時を経て現実になった。2002年、舞台「鹿鳴館」で佐久間は平幹二朗と共演したのだ。さらに息子の平岳大もこの舞台で俳優デビューを飾った。俳優同士であるがゆえ、うまく行かなかった結婚生活…。しかし、長い年月を経て、俳優という職業がかつての家族を再び結び付けてくれた瞬間だった。
78歳を迎えた今も、与えられる役柄と真摯に向き合い続けている佐久間。今年10月には、舞台「大石内蔵助の妻、りく」への出演が決まっている。原作は、平岩弓枝の歴史小説。一人の女の一生を、モノローグで表現するという佐久間にとって全く新しい挑戦だ。
 女優として、母として、常に全力で生き抜いてきた佐久間良子。その知られざる素顔に、テレビ朝日スポーツコメンテーターの宮嶋泰子が迫る!

7月16日(日)
ゲスト:ファイティング原田(日本プロボクシング協会終身名誉会長 元世界フライ&バンタム級王者)

ゲスト×インタビュアー
ファイティング原田(日本プロボクシング協会終身名誉会長 元世界フライ&バンタム級王者)×嶌信彦(ジャーナリスト)

日本人として初めて世界フライ級、バンタム級の2階級を制し、日本ボクシング史上、最強といわれたボクサー、ファイティング原田。
1943年、東京・世田谷生まれ。中学2年生で名門・笹崎ジムに通い、プロデビューから破竹の25連勝を遂げる。だが、当時のフライ級にはカミソリパンチの海老原、メガトンパンチの青木といったホープがおり、原田を加えて“フライ級三羽がらす”といわれていたものの、才能面では原田が一番劣っていた、と振り返る。では“才能”で劣る原田は、どのようにしてライバルたちを退け、世界王者にまでたどり着いたのか? 
16歳でプロデビューを果たすと、果敢に前に出るファイトスタイルと速射砲のようなラッシュを武器に、強豪を次々と撃破していく。そしてデビュー3年後の1962年、19歳の原田は世界フライ級タイトルマッチに挑戦。王者を見事11回KOし、白井義男に続き、日本人2人目の世界タイトルを獲得し、国民的スターとなった。
原田といえば、忘れてならないのが過酷な減量だ。しかし、もともと原田は太りやすい体質、それに加え、年齢も19歳とまだ身体的にも成長を続けており、フライ級(50.08キロ)で戦うには、時に短期間で17kgもの体重を落とさねばならないなど、想像を絶する減量が必要だった。試合の直前には、水分を出しつくした体からさらに水分を絞りだす。原田が水を口にしないよう監視がつき、ジムの水道は元栓まで閉められたという。その壮絶さは、ボクシングマンガ「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈のライバル・力石徹の減量シーンのモデルとなったともいわれている。しかし、今振り返れば、この減量こそが勝利には必要不可欠だった、と原田は語る。さらに、「酒、たばこ、女性、は全て禁止だった」というストイックな現役時代を過ごした原田にとって、時代が違うとは理解しつつも、今のボクサーは“我慢”“ハングリー”が足りないと嘆く。なぜこれほどまでストイックに、原田はボクシングと向き合うことができたのか?
原田の名を不動のものにしたのが、49戦無敗、うち39KOという驚異的な強さを誇り、“黄金のバンタム”と呼ばれたエデル・ジョフレとの世界選手権だ。1つ階級を上げ、ブラジルが生んだ怪物王者ジョフレから、バンタム級タイトルを獲得した。その熱戦の視聴率は、なんと54.9%。今なお“日本ボクシング史上最高の試合”と語り継がれている。原田はその後、4度の王座防衛に成功。27歳の若さで引退し、その後、後進の指導にあたってきた。さらに原田は、日本人では初めて「米国ボクシング」(1990)「国際ボクシング」(1995)ともに殿堂入りを果たした。
伝説のジョフレ戦に限らず、原田の試合は、軒並み50%以上と、驚異的な視聴率を残している。なぜ、当時の日本人は、それほどまでに原田の闘いに熱中したのか? また、原田自身はどのような思いを抱え、パンチを繰り出していたのか? 努力と根性で世界の頂点に上り詰め、昭和の日本人に最も愛されたボクサーの半生を、ジャーナリスト・嶌信彦がひもとく!