ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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11月19日(土)ゲスト:山本陽子 (女優)

女優、山本陽子。
東京中野区で、四人兄弟の次女として生まれる。中学生までは、どこにいるかわからないほど、おとなしい性格だった。それが一変したのは高校に入ってから。精神統一には弓道がいいと聞き、当時学校にはなかった女子弓道部を先生に直談判して作ってもらった。この件がきっかけとなり、徐々に性格が積極的になっていく。
高校卒業後は、父が証券取引所に勤めていたこともあり、野村証券に入社。そこでのあだ名は「がめこちゃん」。整理整頓がされてないと気が済まないため、人の机まで整理して「がめつかった」のが、このあだ名の由来なのだとか。その後、会社の同僚が山本に内緒で日活に書類を送り、見事合格、芸能界へと飛び込む。しかし、当時は吉永小百合、松原智恵子、和泉雅子の“日活三人娘”が全人気だった時代。少し年上の、山本に回ってくる役は端役ばかりで、何度も辞めようと思ったという。
一年ほどしてテレビから声がかかり、瞬く間に大ブレーク。出るドラマが軒並み高視聴率をマークし、いつしか“視聴率女王”と呼ばれるように。そんな山本の転機となったのが、ドラマ「月の船」だった。それまで主役ばかりだった山本が、脇役に回されたのだ。現場での扱いも主役とはまるで違い、「耐えられなかった」と当時の思いを赤裸々に語る。
失意のどん底にいた山本が、立ち直るきっかけとなったのは、共演者・平幹二朗と、第二の母と慕う宇野千代の言葉だった。平に掛けられた一言が、山本の女優観を変えた。さらに、不倫スキャンダル、恋愛スキャンダルで“恋多き女”と騒がれた時、宇野から「会いたい」と連絡が来る。会ってすぐに宇野が発した言葉が、山本の生き方を変えるヒントを与えてくれた。忘れられない、2人からの言葉とは? 山本に窮地が訪れるたび、救世主が現れ、助言をくれた。その温かい言葉の数々が、芸能生活53年を迎えた今も猛進し続ける山本の、バイタリティーの源になっている。
女優・山本陽子の光と影。ジャーナリストの嶌信彦は、どんな山本の素顔を引き出していくのか?

11月20日(日)ゲスト:笹野高史 (俳優)

俳優・笹野高史。
1948年、兵庫県淡路島の造り酒屋に、男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれた笹野。“笹野のぼん”と呼ばれるほど家は裕福だったが、3歳の時、結核で父が、さらに11歳の時に母が死去。そんな笹野を夢中にさせたのが、母親が大好きだったという映画だった。いつしか“将来は自分も映画俳優になりたい”と思い、渥美清に憧れを持ち続けていたという。そんな笹野が、吉田日出子、柄本明、佐藤B作など、個性的な俳優を輩出した劇団「自由劇場」の門をたたいたのは、日大芸術学部の学生だった時。しかし、大学中退と同時に就いた職業は、船乗り。海外の港を行き来する生活が肌に合ったのか、船員として安定した生活を送る。ところが、ある時、再び役者を目指すことを決意。そこには、笹野ならではの独自の人生観があった。この時の笹野の思いとは?
当時の笹野は、どんな役も器用にこなすものの、個性に乏しく“器用貧乏”といわれていた。同世代の役者が舞台や映画、テレビで大きな役を射止め、華々しく活躍する中、地道に脇役を続け、浮上のチャンスを待ち続けた。そんな笹野に、大きなチャンスが巡ってくる。1985年の映画「男はつらいよ」で、ワンシーンながら憧れの渥美清と共演することになったのだ。以後「男はつらいよ」でのワンシーン出演が定番となり、公私にわたり渥美清からかわいがられ、多くのことを学んだという。そんな笹野が渥美に掛けられた、生涯忘れ得ぬ言葉とは?
顔は知っているけど名前は分からない…自らを“ワンシーン役者”と掲げていた笹野が、多くの人にその顔と名前を知られるようになったのは、58歳の時。映画「武士の一分」に出演し、第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞をはじめ、映画賞を総なめにしたのだ。その後も映画「おくりびと」など数多くのヒット作に出演。その確かな演技力は中村勘三郎にも見出され、現代劇の俳優としては異例ともいえる、歌舞伎の舞台を踏むという経験もした。2009年にはドラマ初主演、そして2015年、67歳にして映画の単独初主演を務めるなど、まさに大器晩成の役者人生を歩んできた。
私生活では42歳の時、17歳年下の妻・絹代さんと結婚。男ばかりの4人の子どもを授かった。父の背中を見て育った子どもたちは、4人が全員俳優として活躍中だ。古希を目前にして、仕事に、家庭に、人もうらやむ順風満帆ぶり。幼くして両親を亡くし、家庭のぬくもりを知らずに育ち、またひたすら脇役を演じてきた苦労人がなぜ、遅咲きの大輪を咲かすことが出来たのか? 
インタビューの舞台は、東京・六本木。現在は、ライブハウスなどとして使われている「音楽実験室・新世界」で行われた。実はここは、笹野の出発点であり、役者の基礎を築いた「オンシアター自由劇場」があった場所。青春時代を懐かしみながら、名脇役は何を語るのか?