ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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10月29日(土)ゲスト:木村清 (すしざんまい社長)

「すしざんまい」などを展開する株式会社喜代村を率いる木村清社長。
4人兄弟の末っ子として生まれた木村だが、4歳の時、父親が事故で死去。家族は一気に貧困に陥る。借金を背負いながら、母は4人の子どもたちを育てた。決して苦労は見せなかったという母が、ある日持ち帰った2切れのマグロ…。それがその後の木村の「人を喜ばす姿勢」の原点となったと語る。
中学卒業と同時に自衛隊に入隊。「高校進学の学費はなく、悩んでいた」という木村に先生から渡された自衛隊入隊募集のパンフレットが、人生を大きく変えた。厳しい訓練に耐えながらパイロットを目指すも、事故に遭い目を負傷。パイロットへの道を断念し、自衛隊を退官した木村が、たまたま公共職業安定所の紹介で出会ったのが築地という世界だった。
その後、水産加工の会社から独立し、自ら水産の卸を始める。さらにビデオレンタルやカラオケ、弁当店と次々に業務を拡大させていき、90以上もの業種を経験した。持ち前の頑張りで実業家として脂が乗ってきた矢先、バブルが崩壊。銀行の手のひら返しに遭い、全ての事業を清算する羽目に…。そして、手元に残った300万円のうち200万円をつぎ込んで勝負に出たのがすし屋の経営だった。初めは10坪の小さな店舗だった「喜よ寿司」は、あっという間に人気店に登りつめる。やがて、築地に人を呼びたいと周囲の人々に説得され、より大きな店舗として心機一転始めたのが「すしざんまい」だった。四六時中人が絶えない築地での開店にあたり、木村が考えたのが年中無休、24時間営業という常識破りのスタイル。しかし、木村の予想に反し、深夜帯を支えるはずのトラックドライバーが一向に来ない。多くのドライバーが「渋滞前に都内から出たい」と考えていることが判明し、切羽詰まった木村は起死回生の秘策を打つ。その意外な作戦とは?
最近は、築地の移転問題にからみ、大型商業施設からの撤退の会見で涙を見せたことが話題に。さらに、最近ネットを騒がせた「すしざんまいの社長がソマリアの海賊を撲滅した」といううわさについて。元自衛官とはいえ、そんなことが本当に可能なのか? ところが木村は実際にジブチに現地入りし、海賊行為を激減させていた! 木村が知った、海賊が外国船を襲わざるを得ない理由とは? そして社長が提案したという“海賊撲滅への対応策”とは?
今や「すしざんまい」は全国に50以上の店舗を構えるまでに成長し、正月の風物詩・築地の“マグロ初競り”では毎年テレビをにぎわせている木村。そんな木村の満面の笑顔の裏には、壮絶な人生の紆余(うよ)曲折が隠されていた。全てを乗り切ってきた木村の馬力と繊細さ、緻密な計画性に、ジャーナリストの嶌信彦が迫る!

10月30日(日)ゲスト:市田ひろみ (服飾評論家)

服飾評論家・市田ひろみ。
インタビューの場所は、東京・目白にある花想容。大正時代に建てられた建物を改築、きものの着付け教室も行っている。そんな和モダンな空間で、市田の人生をひもといていく。
服飾評論家としての原点は、12歳の時にさかのぼる。父親の仕事の関係で小学校の6年間を上海で過ごした市田は、戦後、リュックサック1つで日本に引き揚げてきた。高校時代は、円盤投げや砲丸投げでインターハイに出場。スポーツ万能で活発な高校生活を送る。そして、地元にある京都府立大学短期大学に進学。卒業後、就職を考えていたが、その当時まだまだ女性への門戸は狭かった。10社受けて全て不採用。やっと就職が決まったのが大阪にあるヤンマーディーゼルだった。そこで、技術部長の秘書として活躍するも、OLとして終えるのは嫌だと思っていたという。
ある日、習い事で通っていたお茶の先生から撮影所の見学に誘われた。心弾ませて撮影所を見て回ったのだが、実はそれが女優の面接だった。周囲から猛反対されるも、女優になることを決意し、大映に入社。しかし、その当時の映画界は厳格な縦社会。下積みはつらい経験だった、と振り返る。また欧米風の顔立ちのため、いわれないいじめにもあった。当時は日本風美人が人気の時代だったのだ。
そんな中、市田に転機が訪れる。300人のエキストラが笑い転げるシーンで、一人、タイミングを外して大笑いしたことが監督の目に留まった。そこからせりふのある役に付くようになり、1958年には「手錠」でスクリーンデビューを果たす。しかし、華やかな女優人生も長くは続かなかった。演技が下手で自己嫌悪に陥った市田は、大映に辞表を提出。その後、京都で母親が営んでいた美容室に勤務する。
1963年、再び市田に転機が訪れる。知り合いからきもの教室をやってくれないかと話しをもちかけられたのだ。当時、きものの着付けを教える教室は全国では皆無だった。評判が評判を呼び、きもの教室は全国区に。ここに市田の居場所があった。しかし、成功した市田を待っていたのは、同業者からのねたみや嫉妬。そんな時に市田を支えてくれたのが母親の「いつも笑顔で…」という言葉だった。
全国できもの教室を行うなど、多忙を極めていた時、CM出演の依頼が舞い込む。この時、60歳。一度見ると忘れられないお茶のCMだ。“京都のおばちゃん”を等身大で演じ、全国に市田ひろみという名前が踊った。
テレビや新聞、雑誌の取材、目の回るような忙しさの中でも、欠かさなかったライフワークが、1968年から行っていた世界の民族衣装の取材だ。これまで100カ国以上、350以上の民族衣装を取材してきた。通訳もコーディネーターもなし、自分の足だけで、道無き道を歩き、収集してきたのだという。危険な目に遭うこともあるが、政治や文明のはざまに取り残された人々の暮らしの中で、時として目を見張る素晴らしい衣装に出会えるのだと、市田は語る。女性たちが母親から脈々と手法を受け継ぎ、半年、1年、2年…と歳月をかけて丹念に作り上げる“手仕事の見事さ”。そうした伝統の確かな手応えを感じる時、そこには“美しさ”が存在するという。およそ半世紀に及ぶ民族衣装の取材を通し、市田が感じたことは何なのか? 現在84歳にしていまだ現役。1日1日を一生懸命、手を抜かずに生きている市田ひろみのバイタリティーの秘密とは?