ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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10月1日(土)ゲスト:マギー司郎(マジシャン)
マジシャン・マギー司郎。インタビューが行われたのは、板橋にある20年来の行きつけという「喫茶・ピノキオ」。いつもこのお店のマスターに新作マジックを披露し、その反応を伺ってきたという。本日も、マギー司郎・マジックショーの開演である。
終戦翌年の1946年、茨城県下館市(現・筑西市)に9人兄弟の7番目として生まれる。戦後の物不足もあり、生活は困窮。貧しい暮らしから栄養失調になり、弱視をわずらう。現在も右目は光を感じるほどだという。そんな体も弱く勉強もできない司郎の唯一の楽しみが、知恵の輪で遊ぶことだった。その一人遊びの興味は、やがて手品への興味に変わっていく。今回は特別に、自身が小学3年生の時に夏祭りで買った手品グッズを、手作りで再現してもらった。マジシャン・マギー司郎の“原点”とは?
16歳の時、家出同然で憧れの東京へ。キャバレーでアルバイトをしながら、マジック教室に通う。やがてプロを目指し、20歳で初舞台を踏む。そこは、場末のストリップ劇場。以来、踊り子たちの出番の合間にマジックを披露する日々を14年間過ごす。しかし、ストリップ劇場に足を運ぶお客さんは、司郎のマジックなど見向きもしてくれなかった。そこで編み出したのが、マギー司郎の真骨頂“おしゃべりマジック”。その誕生秘話が明かされる。
そしてついに、32歳の時に転機が訪れる。人気番組「お笑いスター誕生!!」に出演した司郎は、7週連続で勝ち抜き、瞬く間にお茶の間の人気者に。すると、予期せぬ人からの連絡が舞い込む。テレビに出演していた息子の姿を見て、16歳で家出同然で別れたきりの母から電話があったのだ。当時を振り返り、母への思いを語る司郎の目には、大粒の涙が…。
その後も、ギャグのセンスにあふれる新しいタイプのマジシャンとして注目を集め、テレビや舞台などに多数出演、多くの賞も受賞した。マギー審司さんをはじめ、弟子12人を育てるマジック界の大御所として、今も舞台に立ち続けている。今年芸歴50年、マギー司郎の今後の展望とは?
インタビュアーは、テレビ朝日スポーツコメンテーター・宮嶋泰子。唯一無二の存在として、マジック界のトップランナーとして駆け抜けてきたマギー司郎の「裸の履歴書」をひもといていく。
10月2日(日)ゲスト:大澤孝征(弁護士)
弁護士・大澤孝征。
小学生のころから弁護士になることを志し、司法試験合格後もその思いは揺らぐことがなかった大澤だが、選んだのは検事という道だった。それは一体なぜだったのか? 大澤の大きな岐路についての話から、インタビューはスタートした。
大澤が検事となった1972年は「あさま山荘事件」が起き、日本が混沌(こんとん)としていた時期。数々の大事件が起こる中、1年間に休みは元日だけだったという。諸先輩の術やさまざまな経験から学んだ“聞き出す”術が、今のたくみな話術につながっているという。
真実を追求する検事という職に没頭していくも、39歳の時に検事の仕事を辞め弁護士へ転身。家庭を顧みず、ただひたすら仕事に没頭した大澤は、妻に言われた一言で弁護士になることを決意したという。その妻の一言とは?
弁護士となった大澤は、すぐにテレビ出演を始める。検事時代に養った鋭い洞察力と、たくみな話術で語る分かりやすい法律解説で、数回の出演予定だったテレビ出演は以後何十年も続くことに。テレビに出演したきっかけは何だったのか? その裏に隠された思いを語る。
弁護士となった大澤が熱意を持って取り組んできたのが、「犯罪被害者への支援」だ。これまでの日本は、加害者への保護は十分になされているにもかかわらず、被害者へのケアが希薄だった。今回のインタビュー会場でもある被害者支援都民センターの副理事でもある大澤が、この活動に取り組むことになったきっかけは何だったのか? 犯罪被害者への支援でどのようなことが行われていて、何が問題点なのか?
そして、インタビューは、プライベートの話題へ。実は大澤は、句集を出版するほど俳句をたしなみ、名取になるほどのしの笛の名手。日々鍛錬を積んだその腕を、持参してくれた愛用の笛で披露してくれた。
司法の世界に足を踏み入れてから、まもなく50年。70歳を越えた大澤の“若さ”はどこから生まれてくるのか? そこには大澤ならではの、年齢に対する独自の考え方、日々の取り組みがあった。
インタビュアーは、タレント、エッセイストの小島慶子。切れ味鋭く、耳なじみの良い語り口…、なぜ大澤がテレビの世界で重宝されるのか、今なお一線級の弁護士として活躍を続けていられるのか、今回のインタビューを見終えたら、きっと納得できるはずだ。