ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
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9月10日(土)ゲスト:草笛光子 (女優)
女優・草笛光子。
1933年、神奈川県横浜市生まれ。内気で人見知りだった幼少期の草笛は、家族以外とは会話ができなかった。8歳の時、太平洋戦争が勃発。疎開先のお寺でシラミと戦い続け、家へ帰りたいという思いから病気になりたい、と願ったと当時を振り返る。
1950年、17歳の時に松竹歌劇団に入団。女優の道へと進み、その後、舞台・映画・ドラマと女優の幅を広げていった。女優として才能を開花させた草笛だが、一度だけ女優を辞める覚悟をしたことがあるという。出演が決定していた舞台を降板させられたのだ。この時の心境を赤裸々に語る。
女優を辞める決心をして、アメリカ・ブロードウェーへと向かった草笛は、そこで運命の舞台「ラ・マンチャの男」と出会う。舞台に感激し、女優魂が燃え、女優を続けることを決意。しかし、日本公演が決定した時に、さらなる悲劇が草笛を襲う。心身ともに疲れ果て、自殺まで考えたというこの時の胸の内とは? そして自殺を思いとどまらせた、ある出来事とは?
2009年、マネージャーとして2人3脚で歩んできた母・登美恵さんが他界。母が亡くなった翌日から、草笛は左足首に赤い絹糸で編んだひもを結んだ。これまで一度も切れたことが無いという赤の絹糸に込められた、母への思いとは?
草笛のトレードマークといえば、美しい白髪。しかし、以前は髪を染めていた。舞台でがん患者役を演じた際、髪をそって出演したことがきっかけとなり、染めることをやめた。精神的に解放され、気持ちが楽になり、服装も変わったという。白髪を受け入れたことで生まれた“自由”について語る。
70歳を過ぎてからは、週に一度トレーニングを行っている。2006年から出演している舞台「6週間のダンスレッスン」は、スイング、タンゴ、ワルツなど、6種類のダンスを踊るハードな内容。自身の体力に危機感を持った草笛は、トレーナーとストレッチやトレーニングを重ねてきた。トレーナーの容赦ない要求に「死んじゃう」と弱音を吐くことも。今回、誰でも自宅で簡単にできる、草笛流トレーニング方法を紹介してくれる。
草笛が今後挑戦したいこと、それは2020年東京オリンピックの聖火ランナーとして走ること。走っている最中、いつ倒れてもいいよう棺おけを準備するという。望みを持ち続けることで、心と体が元気でいられる、と語る。
インタビュアーは作家・吉永みち子。かつて雑誌の対談で対面し、意気投合。草笛からの指名により、今回のインタビューが実現した。作家の目線から、女優・草笛光子の「裸の履歴書」に迫る!
9月11日(日)ゲスト:毒蝮三太夫 (俳優・タレント)
俳優・タレントの毒蝮三太夫。
1936年、大阪生まれ。本名・石井伊吉。生後まもなく東京・品川に移り住むも、東京大空襲で焼け出され浅草へ。当時は、落語と野球が大好きな少年だった。役者の道に進んだのは、12歳の時。戦災孤児を題材にしたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の舞台に出演が決まったのだ。その縁あって、高校時代は青春映画にも出演。初期のテレビドラマにも数多く出演している。しかし、このころ毒蝮は映画監督になりたかったという。当時の葛藤と思いを明かす。
1966年30歳の時、「ウルトラマン」のアラシ隊員役に抜てきされる。続く「ウルトラセブン」やお笑い番組「笑点」にも出演し、一躍人気者に。そのころ、立川談志からの助言で「毒蝮三太夫」と改名する。親友だった立川談志との出会いから交流、そして談志もあきれ返ったという毒蝮の両親のエピソードについて語る。
さらに、1969年から47年間続くラジオ番組「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」についても。毒蝮がパーソナリティーを務めるこの番組で出会ったお年寄りは、これまでに60万人以上。今や“シルバー世代のアイドル”とも呼ばれている毒蝮だが、「ジジイ、ババア」…と、今では当たり前となった毒舌トークの原点は何だったのか? お年寄りたちの爆笑裏話には、元気に楽しく老後を迎えるための秘密があった。毒蝮いわく「笑うことは特効薬」、この言葉の真意とは?
1999年からは、大学の客員教授として教壇に立っている。教えているのは「福祉コミュニケーション論」。これまでお年寄りと接してきた経験を、孫以上に年の離れた生徒たちに伝えている。そんな毒蝮が今の介護社会に、そして現代に伝えたいメッセージとは?
インタビューの舞台は、毒蝮行きつけの日本料理店「九つ井」。インタビュアーの野際陽子とは、過去にワイドショー番組で共演しており、今回久々の再会となった。毒蝮からは「2人でデートしたの覚えてる?」という爆弾発言も飛び出し…。一体どんな展開になるのか!?