ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
バックナンバー
5月7日(土) ゲスト:里見浩太朗 (映画俳優)
映画俳優・里見浩太朗。
東京で生まれ、静岡県富士宮市で育った里見。太平洋戦争の中、空襲に向かうB29の大編隊を見ていたという。そして終戦の日、家族と玉音放送を聞いた。当時の心境を語り、ふるさとの原風景を語る。
1956年、20歳で東映第3期ニューフェイスに合格し、俳優の道を歩み始める。入社して半年がたったころ、人生の岐路に立たされた。「東京で現代劇をやるか?」「京都で時代劇をやるか?」この2つから選べと選択を迫られた。悩みに悩んだという里見の、当時の心境とは? そして、時代劇を選んだ理由とは?
テレビドラマ「水戸黄門」では、35歳から“助さん”こと二代目佐々木助三郎役を17年間、2002年からは5代目水戸光圀役を9年間務めた。里見には、水戸光圀を演じるうえで、どうしても納得できないことがあったという。さらに、絶対にやってはいけないルールもあったというが…。今だから話せる、「水戸黄門」の裏話とは?
時代劇特有の歩き方、着物、姿勢、メークなどさまざまな時代劇の作法についても語る。それは、まさに“日本の伝統文化”そのもの。今回特別に、里見自ら立ち回りを披露する。
また、舞台で共演した美空ひばりとは、ともに「姉上」「浩べえ」と呼び合う仲。初めて楽屋へあいさつに行った時の心境、ひばりの芝居への姿勢を明かす。
2012年76歳の時、テレビドラマ「リーガル・ハイ」で、主人公の弁護士をサポートする事務員役を演じ、新境地を開拓した。これまで時代劇にこだわってきた里見が、近年は現代劇を演じることも面白いと感じているという。時代劇と現代劇、その魅力の違いを語る。
今年、俳優人生60年を迎える里見。80歳となる今、里見が思い描く将来の夢とは? さらに、時代劇の未来とは?
インタビュアーは、映画監督のヤン・ヨンヒ。時代劇を見て育ったという彼女にとって、里見は時代劇の一時代を築いた伝説の俳優だという。ヤンが映画監督の目線から、時代劇の文化や作法について深く切り込んでいく。ヤンだからこそ聞き出せた、里見浩太朗の知られざる「裸の履歴書」とは?
5月8日(日) ゲスト:水森かおり (歌手)
演歌歌手・水森かおり。NHK紅白歌合戦13年連続出場で、今や女性演歌歌手の顔となったといっても過言ではない。数々のご当地ソングを歌い、誘致合戦まであるというご当地ソングの女王は、どのようにして誕生したのか?
東京都北区で育った水森は、父に連れていかれたスナックで、周囲の大人たちがくれるジュースを目当てに演歌を歌うマスコット的な存在だった。「褒めてもらうことが、うれしかった」と当時を振り返る。数々の子ども向け歌合戦に出場し優勝を重ねたものの、“高根の花”である歌手になどなれるわけがない、と考え、国際秘書を目指して短期大学に進学。しかし、当時短期留学をしたアメリカで、ホストファミリーとの間で起きたある出来事がきっかけとなり、歌手の道へ進むことになる。今でも忘れられないという、その体験とは?
その後、歌手として歩み始めた水森は、オリコン初登場3位という華々しいデビューを飾った。しかし、しばらくして大スランプに陥る。売れない無名の演歌歌手に待っていたのは、周囲からの心無い言葉や行動だった。そんな失意の時代を支えたのは、父の厳しくも優しい言葉だったという。その言葉とは?
今や80曲を超えるご当地ソングを歌ってきた、水森。秋田と青森を結ぶ「五能線」を歌えば乗車率が6割も上昇、さらに歌った場所の観光客が増えるなど、水森のご当地ソングは、地域活性化の力がある、とまでいわれている。“女王”と呼ばれることを、彼女はどう思っているのか? “水森かおりはショートケーキのいちご”と、本人が語るその真意は?
今や押しも押されもせぬ演歌界の大黒柱となった水森。地方の熱い視線を浴びながら歌うご当地ソングの女王は、本人も知らぬうちに、その地位に上り詰めていた。しかし、振り返ればその道のりは決して順風満帆ではなかった。苦悩の日々も力に代えてきた水森かおりが、これまでの人生を自ら振り返る!