ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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11月21日(土) ゲスト::紀里谷和明(映画監督)

11月公開のハリウッド映画「ラスト・ナイツ」。この作品を監督、プロデュースしたのが、今回のゲスト、紀里谷和明。クライヴ・オーウェン、モーガン・フリーマンなど一線級のハリウッドスターを迎え、日本の忠臣蔵をモチーフに、壮大なストーリーを完成させた。

今回のインタビュアーは、月刊ゲーテ編集長・舘野晴彦。紀里谷の幼稚園からの幼なじみが営む六本木の居酒屋で一杯飲みながら、希代のクリエイターの意外な素顔を明らかにしていく。

紀里谷和明が生まれたのは熊本の小さな町。父は若くして事業を起こし成功した実業家だった。そんな父親の背中を見て育った紀里谷少年は、小学生の頃からビジネスで身を立てることを決意する。ハーバード大学に行き、実業家として成功するんだ…。紀里谷は夢を実現させるため、ためらいなくアメリカ行きを決意する。

15歳でアメリカへ渡った紀里谷は、持ち前の行動力で次々と扉を開いていった。1日も早く英語を習得するため、ホームステイしていた日本人の家庭から、英語だけの環境を求めて全寮制の学校へ。音楽やアートなど80年代のアメリカ文化に大きな感銘を受けると、全米屈指のアートスクール、ケンブリッジ高校に編入。とあるきっかけで始めた写真撮影の仕事も、誰に教わるわけでもなく、自分で創意工夫を繰り返し、紀里谷ならではの作品を作り上げていく。そして、映像の世界への挑戦を始めると、前例にとらわれないその先鋭的な作品で、紀里谷和明の名は広く世に知られるようになった。

幼いときから現在まで、何時いかなるときも、紀里谷は自らの決断で道を切り開いてきた。そんな生き方に大きく影響を与えているのは、祖父の生き方かも知れない。太平洋戦争末期、苛烈を極めたビルマ戦線に連隊長として従軍。敗色濃厚の中、下された玉砕命令に背き、部下を引き連れ帰国、紀里谷の祖父は多くの若者の命を救った。しかし、終戦後、戦場で死なせてしまった部下たちへの罪悪感からなのか、祖父は自ら命を絶ってしまう。

そんな祖父の壮絶な人生を、幼い頃から聞かされ続けた紀里谷は、自分も死に向かって生きている…、そんな意識がいつも心にあるという。限りある命の中で、今出来ることをやれるだけやる。それが紀里谷和明の生き方なのかも知れない。

そして、話すのはこれが最後にする、と、紀里谷の人生を大きく変えた宇多田ヒカルについても語った。出会いから別れ、そこにあった紀里谷の想いとは…。

11月22日(日) ゲスト:桂由美(ブライダルファッションデザイナー)

日本におけるウェディングドレス・デザインの草分け、ブライダルファッションデザイナーの桂由美。日本に「ブライダル」という言葉はおろか、ウェディングドレスを着て結婚式を挙げるなど考えもしなかった50年前、日本初のウェディングドレス専門店をオープン。それから50年、日本はもとより、世界で常にブライダル界のトップに立ち続け、現在も現場の第一線に立ち続けている。桂由美の激動の半生は、同時に日本のブライダルの歴史でもある。

公務員の父と小さな洋裁教室を開いていた母との間に長女として生まれた桂。ブライダルの世界へ足を踏み入れたきっかけは、母への反発心からだったという。母親の跡を継ぎたくない桂が選んだ道はなんと芝居の世界。そこで見たこと、学んだことが後々の人生を決めることになった。

日本初のウェディングドレス専門店を開いたのは1964年。「ブライダル」という言葉はおろか、ドレスが全くなかった時代。ドレスを着て式を挙げる人は3%しかいなかった。当然お客さんは少ない。食うや食わずの経営だった。それでも桂由美は攻め続けた。日本初のブライダルコレクションを開催。ウェディングドレスの認知度がなかった時代に、すでに個性を打ち出していた。全ては、花嫁を綺麗に魅せるため。しかし、なんと自分の結婚式ではウェディングドレスを着なかった。その驚きの理由とは?

転機がやってきたのは1981年。桂由美を「世界のカツラ」にした「ユミライン」の誕生。その誕生の裏には、それまでのデザインの否定と日本の美の導入にあった。

運も桂に味方した。同じ年、世界中の目を釘付けにした、イギリスのダイアナ妃の結婚式。美しいドレス姿に、それまで着物で式を挙げていた日本女性も大きな影響を受け、ついにはドレスが、結婚式で着物を着る人を上回った。

常に時代の先を走っていた桂由美。その原動力の秘密に迫る。