ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~
バックナンバー
10月10日(土) ゲスト:衣笠祥雄(野球解説者)
負傷をしても休む事無くバッターボックスに立ち続け、「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄。2215試合連続出場は世界記録、国民栄誉賞も受賞した。常にフルスイングで勝負に挑み続けた姿は、ファンを熱狂させてきた。
1965年、広島東洋カープに入団した衣笠。入団当時は、厳しいプロの世界に驚きを隠せなかったという。他の選手との力の差を見せつけられ歯がゆい日々を送る中、衣笠を救ったのが根本陸夫コーチだった。後に広島の監督となった根本がかけた言葉とは?衣笠は根本監督が居なければ今の自分はいないと語る。
創立以来26年目にして初めてリーグ優勝した1975年。優勝という現実が垣間見え始めた頃、衣笠は「怖くなってきた」という。その真意とは?
好成績を残し一軍起用され続けてきた衣笠だが、突然のスランプに襲われたことがあるという。打率が1割に満たない状況…、スタメン落ち…。衣笠は当時のスランプについて重い口を開いた。果たして衣笠がスランプから抜け出した方法とは?
1979年、日本シリーズ初優勝をかけた広島対近鉄の第7戦。9回ノーアウト満塁のピンチ。後に「江夏の21球」と呼ばれる激闘。投手、江夏豊が追い込まれている中、衣笠は江夏の異変に気づき、すぐに駆け寄り2人は言葉を交わす。衣笠は江夏と交わした言葉の真意を赤裸々に語る。そこには野球人、衣笠の信念があった。
1987年10月、23年間の現役生活から引退した衣笠。連続試合出場2215という世界新記録を残しグラウンドを去った。衣笠は、連続記録を達成出来たのは周りの人々に支えられた結果で自分の努力は僅かだという。68歳の今、これからの野球界に恩返しをしたいという衣笠が今後の夢を語る。野球界の未来とは?そして鉄人の今後とは?
10月11日(日) ゲスト:伊東四朗(喜劇役者)
喜劇役者・伊東四朗に、夫婦役を演じたこともある女優・野際陽子が迫る。
東京都台東区で、戦時中に生まれた伊東は、小学2年生のときに、母の実家である静岡の掛川に疎開。中学2年生までをそこで過ごした。
東京に戻り、高校を卒業するが、「就職」という大きな試練が待ち構えていた。数十社の試験に落ち、行き先のなくなった伊東は大学の生協でアルバイトを始める。その時、盛んに足を運んでいたのが、ストリップ劇場などで開かれる幕間の喜劇だった。毎日通ううちに、劇団長に出演を勧められ、舞台に味をしめたのだという。
その後、伊東に運命の出会いが訪れる。まだ駆け出しだった伊東は、あるプロデューサーに芸能人としての基礎をたたき込まれる。後に生まれたのが、人気キャラクター"ベンジャミン伊東"だった。だが当時、そのキャラクターを演じているのが自分だと、周囲に気付かれたくなかったのだという。その訳とは?
さらに、江戸風の粋な笑いを教わった、三木のり平。撮影中に、歌を聞かせてくれた森繁久彌。喜劇の感性が合う、三谷幸喜…。その後も、多くの"天才"との出会いが、伊東を大きく変えてきた。
国民的ヒットドラマ「おしん」の父親役に、人気アニメの実写版「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造役、さらにドリンク飲料「タフマン」のキャラクターまで…、来る仕事は何でもこなすという、伊東の情熱の源とは?
また、毎日欠かさずしているという"円周率"の暗記、またひょんな出会いから生まれた"てんぷくトリオ"の結成秘話など、伊東四朗の知られざる素顔と57年の芸能生活が赤裸々に語られる!