ザ・インタビュー ~トップランナーの肖像~

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3月14日(土)ゲスト:川淵三郎

日本サッカー協会最高顧問・川淵三郎に、元サッカー日本代表の中山雅史が迫る。日本にまだプロサッカーが無かった時代に開催された東京オリンピック。強豪国との試合のチケットが余ってしまうほどサッカーは人気が無かった。当時、W杯出場など、はるか遠い夢のような出来事だと思っていたと川淵は振り返る。

そんな日本のサッカーを変えたのが、川淵が作り上げたといっても過言ではない1993年のJリーグの開幕だ。同じ時代、チェアマンと日本代表選手として日本サッカー界を牽引した二人が当時の舞台裏を語りだす。Jリーグ設立秘話、「ドーハの悲劇」、川淵がイメージする日本代表監督のあるべき姿など…。

川淵は1936年、大阪・高石市の生まれ。高校時代にサッカーを始め、早稲田大学在学中に日本代表デビュー。1964年の東京オリンピックにも日本代表として出場し、強豪アルゼンチンとの試合では1ゴール1アシストの活躍で逆転勝利に貢献。しかし川淵がこの試合で鮮明に覚えていたのは、当時のサッカーの人気の無さを物語る、ある寂しい出来事だった…。

今や野球をしのぐほどの人気スポーツとなったサッカーだが、そのきっかけとなったのは、1993年のJリーグの開幕だ。「地域に根ざしたスポーツクラブをつくる」という理念のもと生まれたサッカーのプロリーグは、空前のサッカーブームを起こす。Jリーグ初代チェアマンとして手腕を発揮した川淵。意見が対立していたある人物との戦い、そして「サッカーの神様」ジーコ招聘の舞台裏までを明かす。

そして、日本のサッカー界にとって悲願だったW杯への道のりを、当時、日本代表としてピッチで戦った中山雅史が自らの体験をもとに振り返る。アメリカW杯のアジア最終予選ドーハで起こった悲劇の敗戦。その瞬間、ピッチの裏で川淵が考えていたこととは?

さらに、初の外国人監督となったオフト監督以降の日本代表監督選考の舞台裏から、アギーレ監督解任騒動にまで言及。川淵が考える次期監督にふさわしい人物像とは?

日本全国にサッカーを文化として根付かせ、その人気を不動のものとしつつある今、その礎を築いた川淵は、今、問題を抱えるバスケットボールの改革に乗り出した。Jリーグで培ったノウハウをどう生かして、どんな改革を見せるのか?スポーツにかける情熱を胸に戦い続ける男、川淵三郎に、現役時代には魂のこもったプレーで戦い続けてきた中山雅史が、熱く迫る。

3月15日(日)ゲスト:五木ひろし

昨年、芸能生活50周年を迎えた五木ひろし。その歌手人生は、栄光の影に数々の苦労が隠されていた。どん底だったデビュー当時と、華やかなりし頃の昭和の全盛期、そして、新たな挑戦を続ける現在。支えてくれた恩人や親友、そして母への想い…。数々のヒット曲に隠された秘話に、同じ時代に生きてきた作家・吉永みち子が迫る!

インタビューの舞台は、東京・虎ノ門にある創作和食料理店「ノブトウキョウ」。 貝類好きの五木が絶品と語るのが、こちらの「牡蠣」。店に電話をかけて、「牡蠣」があるかを確認して食べにいくのだとか。 貝類が好きになったのは、故郷、福井の海の近くで育ったからという。

少年時代、両親が離婚し残された母に楽をさせたいという、強い想いから歌手を目指した五木の人生は、忍耐と苦労の連続だった。 デビュー後、売れない日々が続き、やむなく芸名を変え、レコード会社を何社も渡り歩き、弾き語りで夜の飲み屋を巡っていた。そんな五木の人生を大きく変えたのが『全日本歌謡選手権』での勝ち抜き歌合戦への挑戦。壮絶な勝負の果てに、五木が辿り着いた境地とは?舞台裏に隠された真実が明らかに…。

四度目の改名後「よこはま・たそがれ」の大ヒットでスターダムにのしあがった五木。そんな五木には、知られざるもう一つの芸名がデビュー前に隠されていた。その名前とは?そして、五木の、あの独特なスタイルに隠された秘密は、なんと、当時所属していたボクシングジムのファイティングスタイルからの閃きだった…?さらに、歌手生活51年目の五木が歌に込める想いの極意とは?

恩人の作詞家、故・山口洋子との秘蔵エピソードと、二人で作った唯一の曲「渚の女」をリバイバルさせた、五木の山口に捧げる哀悼の想いが今明かされる…。 数々のヒット曲と共に、五木の激動の半生が紐解かれる。