世界の名画 ~素晴らしき美術紀行~
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戦国の世を飾った絵師
狩野永徳 天下取りの旅路
織田信長が日本一の技量を持つと太鼓判を押した絵師がいます。狩野永徳。日本画の一派、狩野派をおよそ400年も続く盤石な絵師集団として築き上げた人物です。永徳はいかにして日本画の頂点に立ったのか?現存する数少ない永徳の作品を鑑賞しながら、絵師としての足跡と絵画に込められた想いを探ります。
狩野派の祖は室町幕府8代将軍・足利義政に御用絵師として仕えた狩野正信。永徳は正信のひ孫にあたります。13代将軍・足利義輝が永徳に描かせた屏風絵の傑作が山形県米沢市に残されています。国宝「洛中洛外図屏風」です。京都の市中と郊外を細密に描いたこの作品は、義輝の死後、信長が上杉謙信に贈ったもの。都で権力を手にしたことをこの絵で知らしめたのです。
当時、信長はヴァチカンにも屏風絵を贈りました。そこに描かれていたのは安土城。永徳の筆によるものだと考えられています。永徳は安土城内部の屏風絵や襖絵の制作も任されていました。膨大な作品を仕上げることができたのは、狩野派という優れた絵師集団を率いていたためです。
信長の死後、永徳は豊臣秀吉に重用されます。永徳の代表作「唐獅子図屏風」は、秀吉が毛利家に贈ったものだとされています。永徳の勇壮で豪快な作品は、戦国の覇権を争う武将たちに好まれたのです。
時の権力者が好む絵を描き、絵で天下取りを成し遂げた永徳。彼が率いた一大派閥、狩野派は江戸時代、徳川幕府の御用絵師として活躍します。その隆盛は明治維新まで続くのです。400年の長きにわたって活躍し続けた画家集団は世界にも例がありません。その奇跡の礎を築いた絵師が狩野永徳なのです。