朝河貫一とは?

朝河貫一

朝河貫一(あさかわ かんいち)

今から100年以上前に、日本人として初めてイェール大学の正教授となった
世界的歴史学者。1873年、福島県二本松藩士の長男として生まれ、福島尋常中学校(今の福島県立安積高校)、東京専門学校(今の早稲田大学)をともに首席で卒業。「アメリカに留学して世界の幅広い知識を学び、日本文化の文化発信に貢献する」との志をたて、1896年ダートマス大学に留学。当時、これを経済的に支援したのが、大隈重信、徳富蘇峰、勝海舟ら明治の大物たちだった。1899年、イェール大学大学院歴史学科に進学した朝河は「645年の改革(大化改新)の研究」で学位授与、1907年にはイェール大講師ならびに図書館の東アジアコレクション部長に就任する。

こうして歴史学者としてゆるぎない地歩を固めつつ、彼のもうひとつの側面が頭角をあらわす。世界情勢を客観的に見つめ、日本の平和のためにつくす行動。1905年日露戦争後の日露講和会議の舞台では日本の立場を世界の世論に訴え、講和条約の締結に貢献した。1909年には、その後膨張主義をとり、大陸へ進出を図る祖国・日本への警告の書「日本の禍機」を著し、戦争へと突き進む日本の破滅を予言した。1941年の日米開戦の直前にはアメリカ政府の要人に働きかけ、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇への親書を送ることで戦争を回避しようと考え、自らその草案を書いた。

1948年アメリカ・ニューヘイブンにて74歳移で永眠。生涯のほとんどをアメリカで生きたが、常に祖国日本を思い続けた真の国際人であった。

歴史ドキュメンタリー 海を渡ったサムライ朝河貫一 日本に警鐘を鳴らした真の国際人