うたの旅人

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初回放送:2009年12月18日「第九交響曲・歓喜の歌」





ベートーベンの音楽の集大成ともいわれる『第九交響曲・歓喜の歌』。
日本で「第九」といえば、全国各地の合唱団が年の瀬にここぞとばかり熱唱する風物となっている。なぜ日本でこの「第九」がこんなに広まったのか。その原点を探るうたの旅は徳島県・鳴門市。

1989年10月ベルリンの壁の崩壊。その年ドイツの東西ベルリンでクリスマスのコンサートが行われた。指揮するバーンスタインは「第九」のフロイデ(歓び)をフライハイト(自由)に変えて歌わせた。合唱団の正面の中央で歌ったのは日本人だった。
当時ミュンヘン放送合唱団員だった鳴門教育大学教授頃安利秀さんである。
頃安さんは2008年3月中国・青島市で行われた「『第九』里帰り公演」でもテノールのソリストとして歌った。合唱団は鳴門市の「鳴門『第九』を歌う会」を中心に全国から志願した51人に中国の学生やドイツ人4人も加わった。
なぜ里帰りなのか。それは第一次大戦で中国・青島で日本軍の捕虜となり、鳴門市の坂東俘虜収容所に入れられたドイツ兵が合唱付き『第九』を日本で最初に演奏したのだった。1918年6月1日のことであった。
「歓喜の歌」の原詩はシラーの「歓喜に寄せて」で、「つらい苦しみのときに勇気を』と人々を鼓舞し、「恨みや復讐の念を忘れ」と和解を求め、「同胞たちよ、飲もう声を合わそう」と呼びかける。
戦後の日本で「第九」を広げたのは、市民が自発的に作った合唱団だった。
1970年、合唱経験のない川崎の工場労働者約250人による「第九」のコンサートの成功に「生まれて初めて拍手を受けた」と団員は涙した。そしてこの経緯は「俺たちの交響楽」として映画化された。
1989年には「鳴門『第九』を歌う会」の呼びかけで全国の市民合唱団が「全日本『第九を歌う会』連合会」を結成し74団体までに膨らんできた。

ベートーベンが耳の聞こえなくなるとき作曲した「第九」。そんな悲哀のどん底で「悩みを突き抜けて歓喜にいたれ!」と発せられた叫びは、日本人の心に、「呪文」のように響くのかも知れない。