北前船の海道(かいどう)をゆく

北前船の海道(かいどう)をゆく

  • トップページ
  • 放送内容

放送内容

第2夜「青森・秋田から世界へ 北の交易回廊を辿る」

シリーズ第2夜は、北前船本州の玄関口、青森 そして秋田。
江戸時代、青森県は東側を南部領20万石、西側を津軽領10万石に分かれていた。青森から積み出された物は、「大豆」「材木」「海産物」や南部の「銅」、両藩が競い、湊は13といわれる。
江戸時代、北前船の本州の玄関口。蝦夷(北海道)を出港した船の最初の寄港地であり、これから本州の各湊(港)へ向けた資材、食材をどこで売るかを判断する為、各地の相場、相場を予測する為の情報が集まる“情報の十字路”だった。そのため、各地の商人たちは競って青森に支店を置き、銭五こと加賀の銭屋五兵衛や高田屋嘉兵衛も青森の支店を重視したといわれる。
番組は豪商たちが軒を連ねた下北半島の野辺地、田名部、川内の湊を紹介。野辺地には、「隣町まで、かゆのすする音が聞こえる」といわれた豪商たちが愛した「ワレケツメイ茶の茶がゆ」が、田名部には京都祇園の流れを汲む「田名部神社例大祭・田名部まつり」が。今も伝わる。川内の豪商「小針屋」に残った多くの文書は「小針屋文書」と呼ばれ、読み解くと、当時の情報の流通がよくわかる。
津軽の御用湊・鰺ヶ沢。この地の鎮守「白八幡宮」の玉石には、日本各地の商人・船頭の名前が残る。幕末創業の造り酒屋は、当時、海産物の仲買人。当時の蔵がそのまま仕込みの蔵に使われている。津軽第2の湊は深浦。円覚寺(えんがくじ)には、全国的にも珍しい髷を貼った絵馬、「髷額(まげがく)」が残されている。嵐に逢いながらも難破を免れた船乗りたちが、自らの髷を絵馬として奉納したものだ。

さらに番組では、2005年に復元された北前船「みちのく丸」の自走実験を取材。
従来、二枚帆・竜骨・甲板の西洋式帆船に比べ、一枚帆・板構造・甲板のない北前型弁才船は走行能力が低く、追い風でしか走れないという誤ったイメージで語られていた。が、みちのく丸の実証実験により、追い風だけではなくあるゆる風を利用した航法が可能なこと、その速度の速さ、経済性など、その驚異的な能力が分かって来た。

青森の次の寄港地、出羽の秋田。秋田には、佐竹藩20万石の御用湊土崎湊、県南の金浦、そして、県北の能代湊がある。能代湊は、日本一の銅の積み出し港。能代から積み出された銅は、当時、国際通貨として流通していた銅の1/3とも半数ともいわれる。
18世紀の経済学者アダム・スミスは、日本の銅の影響をその著「国富論」の中で、日本の銅の影響を警告している。
銅の算出は、内陸の「阿仁銅山」。佐竹藩藩は当時泉屋住友家と並ぶ銅商人大坂屋と組み、開発を行った。阿仁銅山で産出された銅は舟運を利用して能代湊へと運ばれ、ここからは、北前船航路で大坂、そして長崎まで運ばれた。長崎から先を担ったのは、当時、西洋の国で唯一日本と国交のあったオランダ。オランダは、日本の銅を扱い、覇権を争った。
番組は、阿仁銅山から長崎、そしてオランダまでの銅の流通を取材、「世界経済を動かした秋田・阿仁の銅」の道を辿った。
さらに、大坂屋14代目を発見!豪商の家に奇跡的に残った絵巻を解き明かす。